23/2/12主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書3章13-17節、イザヤ書42章1-9節
「人の罪を負って洗礼を」
この説教を準備しながら心に浮かんだ写真があります。10年前、息子が洗礼を受けた礼拝の後、ここで洗礼盤を持った私と撮った写真です。その息子の顔がすごい嬉しそうな笑顔で、妻の父そっくりの笑顔(笑)で、思うたび嬉しくなります。でもその横の私の顔は思い出せません。笑顔だったに違いないですが、その写真を思い出しながら、イエス様が洗礼を受けられた時の、天の父の思いはどんなだったかと思いました。もしお顔が見えたら、どんな笑顔だったか。あるいは少し寂しそうな、でも遣わされた息子を誇りに思う父として、御子を世の罪を負うために人として遣わされた、憐れみに満ちた父の栄光の御顔ではなかったか。その御顔をイエス様は、はい、父よと仰がれておったと思うのです。
これは先に読みましたイザヤ42章が成就したとも言える御言葉です。そこではイエス様が「わたしの僕」と呼ばれていました。主に従う僕という意味です。その神様の僕が、神様の救いの御心に従われ、人々の罪を償うために死なれると、イザヤ53章ではハッキリと十字架の救いの預言がされます。それを背景に今朝イエス様はこう言われるのです。
「義しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです。」
「義しいこと」正義の義。私たちの罪と死に打ち勝つ償いとして御子を人としてくださった父の義しさです。洗礼は、その父こそが義しいですと、自分の思いでなく、神様に向き直る洗礼です。その洗礼を受けられたイエス様と共に、十字架の憐れみこそが、私たちを救う義しさですと言い換えると、わかりよいと思います。それが父の御心に適う、父が嬉しいと言われる義しさだからです。
その義しさをすべて「行う」と訳された言葉は、マタイのキーワードです。これまで「主が預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった…実現するためであった」と繰返し言われた「実現する」、あるいは先の口語訳が「成就する」と訳した言葉です。
何が成就、実現するのか。三位一体の愛する御子を身代わりにしてまでも、私たちに救われてほしい、共に生きたいのだと求められる、父の御心がです。その救いを既に約束されていた父のご計画がです。
そのご計画の通り御子が来て下さって、私たちが救われるのならと、償いとなられ、死んでも生きよと身代わりになられて言われるのです。「父の喜ばれる義しさを全て行なうのは、我々にふさわしいことです。」この「我々」はヨハネだけにではなく、皆に当てはまる言葉でしょう。むしろ自分にこう問うても良いのです。父の喜ばれる義しさを実現することは、私にはふさわしくないのかと。立派な信仰者だけがふさわしいのでしょうか。むしろ自分のふさわしくなさを知る者にこそ、キリストは近く共におられて招かれるのです。そのあなたのためにわたしは来たから、あなたと共に父の御心に生きるため、父の愛の義しさが我々の内に実現するために、わたしはあなたを背負いに来たから、さあ父が喜ばれる救いの義を一緒に実現しようと。
日本基督教団信仰告白で言えば「神は恵みをもって私たちを選び、ただキリストを信じる信仰によって、私たちの罪を赦して、義とされます。この変わらない恵みの内で、聖霊は私たちを聖めて義の実を結ばせ、その働きを完成されます。」「その御業を成就したまふ」がもとの言葉です。父のくださった御子が、聖霊様と火によって洗礼を授けて下さり、その聖霊様が私たちに救いの義を成就、実現して下さる。そうやって、父の義しさは実現する。我々がそれを実現する。それが「我々にふさわしいこと」だと、私たちに「天にまします我らの父よ」と祈るよう教えて下さった御子が、さあ一緒に生きていこうと招かれるのです。
だから洗礼式の時、必ず信仰告白をします。幼児洗礼などの時も親や家族が告白する。必ず告白する。誰に告白するのか。神様に。聖霊様によって洗礼を授けて下さるイエス様にです。言わば結婚式の誓約の時、神様だけに誓うのでなく、隣りにいて、これから共に生きていく人にも誓うように告白するのです。これから共に生きていきます、その健やかな時も病む時も、自分はふさわしくないと思える時にこそ、イエス様、あなたの憐れみによって助けてください、そのために来られたあなたが主、私の神様ですと告白をする。その信頼の告白と洗礼をイエス様は、そうだ、それが我々にふさわしい。父はそのためにわたしをあなたがたに遣わされたのだから。その御心を、これから一緒に実現していこう。わたしがあなたを負い、あなたの罪と死に打ち勝ち、我らの父の義しさに、一緒に生きるからと洗礼を授けて下さる。死んでも生きる洗礼を、私たちの身代わりに死ぬために人となられた神様が、我らの主イエス・キリストが授けて救って下さいます。
その父の御心に生きるのです。父よ父よとイエス様と一緒に、我らの罪を赦したまえと、父の憐れみの義しさに生きていく。そこに主の御業は現れます。聖霊様が、我らを聖めて義の実を結んで下さるのです。