ルカによる福音書2章21-38節、詩編133篇「天から授かることぶき」

23/1/1元旦主日朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2章21-38節、詩編133篇

「天から授かることぶき」

神様に導かれる体験は、その時にはわからなくても、確かにあの時、導かれていたと、後でわかることもあります。むしろそのほうが多いのではないでしょうか。それは、誰かと会うことの中で多く起こります。自分で選んだのではない出会いを通して後でわかる。導かれたのだと。英語でDivine appointmentと言います。神様のもとでの出会い。今朝の御言葉で言えば、神様に導かれての出会いがあるのです。

先月、吉永長老がギデオンの機関誌に書かれた、私がどのように神様に導かれたかという証を皆さんも読まれたかと思います。何人かの仲間の牧師から、読んだよ、励まされましたという連絡もいただきました。自分で選んでない、あるいは選びたくない道の中で、キリストの救いに導かれる。説教を準備しながら、この教会に導かれた一人一人に与えられ導きを思っていました。皆それぞれ異なった道で、神様に導かれて、キリストに出会い、涙ながら洗礼を受けた方もおられます。その恵みがその時はわからずとも、その人生に確かに神様が救いの実を結ばれて、主が共におられる恵みを、何度も牧師として見させて頂きました。

先週しばらく連絡ができなかった教会の家族から手紙が届きました。転居先でクリスマス礼拝に出席し、二人の方が洗礼を受けるのを見て、自分たちが洗礼を受けた日を思い出した。よく晴れた日曜のクリスマスでした。そして、信仰は捨てておらず、どの教会に行けば良いのかと思っておりました、と書かれていて、心から神様に感謝しました。どこにいても主が共にいてくださり、主が救いの実を結んで下さる。私たちの祈りを聴いて下さり、慰めて下さる。私たちが求めるタイミングでではなくても。あるいはもう信仰を捨てると思うような状況にあったとしても。その私たちを神様が捨てられないから、その代わりに御子を人として遣わされ、キリストが代わりに棄てられることで、私たちが償われ、赦され、我が子よと御腕に抱かれて救われる、恵みによる救いを、神様が選んで下さったからです。神様が導き、慰めて下さいます。

今朝の御言葉でシメオンが、イスラエル、神の民の慰められるのを、待ち望んでおったと言われます。そのシメオンが聖霊様に導かれた先でキリストに出会い、まず自分自身、どれほど慰められたかと思います。シメオンは、ただこの時にだけ導かれてイエス様に会ったのではなく、聖霊様によってこう告げられていました。直訳で言うと「主のキリストを見るまでは、死を見ない」。誰がシメオンに告げたのか。アンナだったかもしれません。預言者であり、この時も一緒にいて、一緒にキリストの救いと慰めを皆に伝えたのです。シメオンが何歳だったかは言われてないので、おそらく死を見てもおかしくない年齢だったのではないかと推測されるのですが、あるいは病気がちな方だったのかもしれません。元気で歳をとっても健康そのものという方が、キリストを見るまで死を見ないと言われるのでなくて、この人がまだ死を見ないのは、この人がキリストに出会うために神様から選ばれているからだ、シメオンさんならそうだろうと、他の人たちもまた救い主キリストに出会えるように、選ばれ、導かれ、恵みを受けておったからでしょう。自分の願う恵みでは、おそらくなかったろうと思います。キリストを腕に抱いたシメオンが「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言ったのは、心から出たホッとした気持ちでもあった気がするのです。安らかな人生ではなかったように思います。苦しみを担ってこられた人生でなかったか。その中でイスラエル、神の民の慰められることを、自分のこととして担ってきた。祈り求めてきた。主よ、来て下さい、私たちをこの苦しみから救いに来て下さいと。自分も担う人生の苦しみの中に、人々の救いのための祈りを担い、神様や人を呪うより、救いの祝福をお与えくださいと。きっと起き上がれる日はアンナと一緒に、神様、私たちをお救いください、死ではなく、罪と死から私たちを救い出して下さる、キリストの救いをこそ見させて下さいと。聖霊様のうめきと共に祈っておったのではなかったか(ローマ8:26)。

そのシメオンが、私たちの祈りを共にうめきの中で祈って下さっている聖霊様に導かれ、キリストを!見て、主よ、わたしはあなたの救いを!見ましたと神様を讃えます。人が何をした何をしてないが救いではない。キリストが救い、しかも「万民のために」整えられた救いだと。よろずの民、全ての人々ですから、キリストが、あなたのためには来てないという人はおりません。キリストが、あなたの救いにはなってないと言われる人は一人もいない。それほどに神様が、万民のために与えられたキリストは、人間の罪のための完全な償いとして、整っています。その神様を信頼して、誰もがシメオンのように、キリストに両手を差し出し、その慰めを受け取ればよいのです。神様のことぶき、永遠の祝福であられるキリストを、その人生に、神様が授けて下さるからです。