ルカによる福音書2章1-8節、イザヤ書53章「受け入れられる喜びを」

22/12/25降誕祭主日礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2章1-8節、イザヤ書53章

「受け入れられる喜びを」

その宿屋の中には彼らの場所がなかった。だから宿屋の中ではなく、飼い葉桶の中に、生まれてきた子は寝かされた、と御言葉は伝えます。家畜が餌をはむ桶の中に。直訳のニュアンスで言うと、飼い葉桶を所有する、その宿屋の中には、彼らの場所がなかったからです。

でも飼い葉桶は貸してくれたのか。おかみさん辺りが、可愛そうに、旅人のロバを繋いで水と餌をやる小屋しかないが、屋根と飼い葉桶ならあると言ってくれたのか。それでも貸して下さるならと、ヨセフたちも野宿しての出産よりはと、感謝したのではないかと想像します。

金曜日の高知新聞の記事で、野宿をしていた30代の男性が、このままではいけないと生活保護を申請したら住所がいると言われた。でも部屋を借りようにも、保証人がおらんと貸せんと、断られ続けた。5件目の電話で、やっと保証人なしで部屋を貸してくれる不動産屋に出会った。きっとその男性も感謝して、ほっと肩の荷が一つ降りたろうと思います。その不動産屋は、保証人のおられない方々のため、会社で借りた部屋を又貸しする形で援助しておられ、その理由をこう言っておられました。「多くの人は、その状況を自分で選んだわけやない」。

アーメンと思いました。この記事がこのタイミングで出たのも神様の御手の中にあるなとも思いました。ヨセフとマリアも、この状況を自分たちで選んだのではありません。まして産まれたばかりの子を飼い葉桶の中に寝かせたのも、わざわざ選んだわけでは、ないでしょう。何でもかんでも人は自分で選ぶのではないし、選べるわけでもない。

続く12節では、その飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が!キリストの「しるし」だと、天使は野宿していた羊飼いたちに告げます。人間が自分で選ぶ選ばないを超えた場所、飼い葉桶の中に、神様の恵みが現れます。自分たちの救いを選べない私たち人間を救われる、神様の選びの恵みが、キリストが現れるのです

産まれたばかりの乳飲み子を、わざわざ飼い葉桶に寝かせようなどと誰も選びたくないから、それがキリストの「しるし」となります。もし、ゆりかごに寝ている赤ちゃんだと言われたら、どの?と、羊飼いも困るのです。神様、もっとわかるように選んで下さいと。

だからかもしれません。神様の救いのしるしは、たびたび人間が選びたくないことの中に見出されます。選びたくないのが必ずしも、いかんと言うわけではありません。もし身重の妻と旅先で泊まるなら、誰だって宿屋の中での宿泊を選びたい。部屋を借りるために保証人となってくれる家族・身内に困らない血縁関係を誰だって選びたい。困らない人間関係を、互いに信頼し合えて保証人にもなれる人間関係を選びたい。そのためにも生活に困窮しないですむ仕事を選びたい。教会を選ぶなら…言うて角が立つといかんので言いませんが(笑)、でもその教会が救い主として伝え礼拝するキリストは、人間が選びたいとは思わない飼い葉桶の中に見出されることを選ばれる神様なのです。人が自分で選びたいと願い、願って当然でさえあることを選び願うのに、それが叶わないと、神様を信じられないとさえ思う、そんな私たちの選ぶ選ばないを超えた恵みの場所が、キリストによって救われる場所が、人間が自分では選びたくない飼い葉桶の中に見出される。それがキリストの「しるし」です。人間のすべての罪を代わりに背負って、死ぬために、すべて償うために人として生まれて来て下さった、恵みの神様の「しるし」なのです。

先に読みましたイザヤ書53章は、キリストが来られる500年以上前に預言された、キリストの十字架の死による救いの預言です。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」あんまりハンサムじゃなかった(笑)というよりは、このキリストを選びたいとは、多くの人が思わんかったということです。神として信じ礼拝することを選ぶなら、こういう神がいい、こういう信仰なら受け入れると人間は思う。神を選べると思う。救いを選べると思う。そして本当はどこに生まれるかさえ選べない私たちが、選べるはずなどない神様を見捨てて、さ迷う羊の群れのように、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った、その私たちの罪をすべてその神様が!キリストによって背負われて人間を救われるのです。まるで棺桶の中に寝かされるように、飼い葉桶の中に寝かされた神の御子が、私たちを背負って赦して救われるのです。

だから私たちも、自分が選んだのでない飼い葉桶のような状況の中に自分を見出すことがあっても、その中にキリストが私と共におられると、キリストが私を背負って立っていて下さると、そのために来て下さったキリストの恵みを見出して生きられるのです。キリストが、ここで私を背負われて生きておられると、恵みの神様の選びを、恵みを信じて生きていける。また、やはり自分で選んだのではない状況を負う隣人の重荷を少しでも担うことを選べたら、どれほどそこに神様の恵みのしるしが現れているか。その恵みの中にキリストは現れるのです。