ルカによる福音書2章8-20節「すべての人々への喜び」

22/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2章8-20節

「すべての人々への喜び」

クリスマスは天使から「民全体」すべての人々に告げられる、救いの喜びの知らせです。私のことも天使と思われてえいですし(笑)、皆さんも、この知らせを人々に告げたら神様の天使になります。

すべての人々にですから、教会は、ここはキリスト誕生の喜びを共にできる人しか来たらいかんとは、言いません。それでは一体誰のためにキリストが来て下さったのか、何のために神様が人となられたのかの、喜びのメッセージそのものがクリスマスからはじかれる、本末転倒の、でたらめなクリスマスになってしまいます。

むしろキリストは、今は喜びを共にできない人々に、わたしはあなたのために来たと慰めて下さる救い主です。飼い葉桶の乳飲み子は、何でこんな目にと神様を見失い苦しむ人々のために来られました。争いの中にある人々のため、怒りと悲しみに飲み干されそうな人々のため、死の暗闇に飲み込まれそうな人々のために、キリストは、そのすべてに打ち勝つために、生まれてきてくださいました。

あなたのためには生まれてないと主が言われる人は一人もいません。キリストが、あなたは背負ってないという人はおらんのです。神様は、すべての人のために、その罪と死に打ち勝って、私たちの罪と死をこそ永遠に滅ぼすために人となられました。人間には取り返しのつかない命の喪失を、人となられた神の御子の命と引き換えに取り戻すために来て下さったのがキリストだから、神様が、あなたのためには死んでない、あなたの命は取り戻さないという人はおらんのです。

その救いを表すのに聖書で用いられる言葉、讃美歌でもよく歌われる言葉が「贖う」です。難しい宗教用語のようで私はあまり言わんようにしていますが、その意味は、買い戻す、命を代わりに支払って取り戻すという救いの言葉、キリストの愛を表す言葉です。

この夜、すべての人の贖いと引き換えに、死にに来て下さった神様が人としてお生まれになられた。人間を死から取り戻しに来て下さった。

そのしるしが、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子だと天使は告げるのです。そしてその直後、突然、天使の大軍が現れて神様を賛美します。それは、そのしるしの何たるかを理解した天使たちが、すべての人のため命を捨てに来られた神様の、信じられないほど大きな愛で、人間の罪を完全に背負われて救われる神様に栄光あれ!と、もう褒めたたえずにおれんなったのじゃないか。天使たちからしても突然に、わ!っと溢れ出た賛美だったのではないかと想像します。神様すごい!と。

そして、そんなにも愛されて、赦しの約束のもとにある人間たちに、どうか神様との平和な関係が持たれますように、その人間通しが互いに平和な関係がありますようにと、切実な思いで祈らずにはおれんかったのでしょう。争いでなく、ヘイトや誤解、殺し合いでなくて平和があるように。平和を祈りたい!どうか互いに平和に暮らして欲しい。神様、憐れんで下さいと。きっと私たちも、そうだと思うのです。罪によって失われる平和、罪深い人間の命を、その人間の罪と死に打ち勝って取り戻しに来て下さった神様!あなたがくださった御子の平和を、失われてなお失われない神様の救いの平和を私たち人間にくださいと。

今年、四名の兄弟姉妹を天にお送りしました。教会員も、キリスト者ではなかった兄弟姉妹も、飼い葉桶の救い主、キリストの良き知らせの慰めのもとでお送りしました。

その中のお一人の前夜式で、先に歌いました讃美歌「久しく待ちにし」を歌いました。召された姉妹が愛唱讃美歌として信仰の遺言書に記された歌です。葬りでクリスマス讃美歌を歌うのは私も初めてではなかったかと思いますが、歌いながら深く慰められました。

お暗きこの世に み光をたまえ

主よ、主よ、み民を救わせたまえや

「主よ、主よ」の歌詞は、もとのラテン語では「喜べ、喜べ」です。天使が「恐れるな、私は全ての人々に与えられる大きな喜びを告げる」と宣言した救いの喜びです。すぐ消える小さな喜びではない。少しの人にしか与えられないほど小さくはない。すべての人々に、ご自分の命を恵まれてしまうほど大きな神様の喜びが、人がキリストの恵みによって救われることにある。私たちの死が死で終わらず、その死に打ち勝たれ復活して下さった飼い葉桶の御子の喜びに、復活の救いの光に私たちが包まれるために、御子に背負われて、十字架ですべての罪を赦されて、死から取り戻されて生きられるためにこそ、キリストが来て下さった。神様が、そのために私たちの救いとなられて来て下さった。その喜びはすべての人々に与えられる大きな喜びであることを、私たちもまた天使たちと共に、神様をほめたたえ、救いの平和を祈りながら、共に喜んでよいのです。救いの主が、私たちのもとに来て下さったと、暗い世を、なお喜びの光で照らし続けるキリストを共に礼拝するのです。