22/11/20 主日朝礼拝説教@高知東教会
ローマの信徒への手紙15章7-12節、詩編117篇
「自分の外に目を向ける」
いよいよ今日は礼拝の後、クリスマス・リース教室を行います。時間をかけて準備してきました。それは、まだ多くの人がキリストの救いを知らない日本で、クリスマスは、受け入れられ定着しているからです。リース教室に迎える、その方々と共にクリスマスの御子を礼拝したい。礼拝で語られる御言葉を、共に私たちへの救いの言葉として聴きたい。そして主を、共に救い主としてたたえたくて、リース教室を行う。それ以外の理由はないでしょう。自分たちが何か活動できて楽しいから行うのでないのは、礼拝もそうですし、教会のすべてが、そうです。今朝の御言葉で繰り返し強調される言葉で言えば、すべては異邦人が主の民と共に喜ぶため。そのために教会は、この世に存在し、仕えるのです。
異邦人、つまり神様を未だ私の神様として知らない、父と子の関係を持ってはないけど、そのための準備が神様の側では全部できていて招かれ愛されている、すべての人よ、その神様を我らの父と呼んで礼拝する「主の民と共に喜べ」と、神様が、求めておられる。だから教会はその喜びを、共なる喜びを、主と共に求め、人々に仕えます。
自分だけでは喜べない喜びが、共なる喜びだと言ってもよいのです。私たちは、どんな喜びを求めて生きているのか。あるいは、そのために誰と生きているのか。弟が野球部の寮に入った後、人から頂いたケーキ等の食べれる分が倍になって喜んだのを何故か覚えています。我ながら卑しい喜びだと思ったのかもしれません。おそらくテレビで見たマザーテレサに心惹かれたのも、その頃と重なっていたでしょうか。愛のない自分を冷ややかに自覚もしていました。自分だけの喜びを喜びながら、しかしその自分を喜べず遠くから見ている意識の自覚は、また、誰にもあるのではないでしょうか。自分だけでは喜べない喜びを、共に喜ぶ。そこには関係の喜び、一つになる喜びがある。兄弟愛、隣人愛、聖書の証しする神様の愛は、すべてが、相手との愛と信頼の関係、共に生きる喜びを求める、神様由来の、相手と一つに生きる関係の愛です。自分の求めや希望が満たされて喜んでも、私たちの喜びは満たされない。でも私たちが私たちとして共に喜ぶ中には、私たちを愛される神様の喜びが満ちるのです。それはその喜びの出所が、大胆に分かりやすく言えば、自分が満たされたら喜ぶ孤独な神なんかにはなくて、その出所が、永遠に共なる愛に満ちた、三位一体の父・子・御霊の神様にあるからです。私たちはその三位一体の神様の愛の形に創られたのです(創1:26f)。
その三位一体の神様の求めと喜びが、あなたたちすべてを治めるために!と、父が、御霊によって、御子を!与えて下さった。それがまさにこれから迎えるクリスマスの喜びと希望を宣言する、この御言葉です。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人、世界のすべての人を治めるために立ち上がられる」。まさにアドベント、救い主キリストの到来です。
人となられた三位一体の御子、キリストは、まったく、その他の理由では来られませんでした。御子が人となられて来られた理由は、私たちを、神様の形に創られた神様の私たち、主の民として、神様の宝として受け入れるため、共に喜ぶため、それが実現するために私たちすべてを「治めるために」来られた。改めて心に刻みたいのです。クリスマスの御子は、私たちすべてを、十字架の愛と恵みのご支配の内に受け入れ、支え、導いて、罪と死から救うために、来られた。
12節「」の中を直訳するとこうです。「エッサイの根は現れる。異邦人を治めるために立ち上がられる方が!彼に、異邦人は望みをかける」。
「治めるために立ち上がられる」。それはクリスマスが脇目も振らず真っ直ぐに目指しているイースター!復活の「立ち上がられる」です。すべての人の、すべての罪を、一つ残さず、一つも残してなるものか、わたしは主、あなたがたの罪を背負い切って裁きから救い出す神だと、御子は、全人類の罪を背負って、私たちを償い切って代わりに死ぬために来られた。それは「すべての異邦人」「すべての民」、つまり先週説教した8節で神様がアブラハムに約束した「すべての家族」がキリストの祝福を受けて、神様の十字架の身代わりを理由に、償われるためです。信じられないほど信頼に値する、神様が!身代わりに死なれるほどに、救われよ!と受け入れて下さる。この神様を、すべての人が共に喜び、共に、あなたこそ私たちの救い主、我らの主、我らの神よと、たたえるために、そして御子は、立ち上がられた。私たちの罪も死も何もかもを背負い切られて、すべての人の代表、主として死から立ち上がられた!復活は、あなたの償い、あなたの代償は、すべて償い終えたという勝利の知らせです。罪を償い終えた人が出所するように、キリストが、すべての人の主として、立ち上がられた!それは一体、何のためだったか。これが御言葉のメッセージです。すべての人を永遠に治めるため!
この救い主の恵みのご支配を、だから教会は証しするのです。すべての人を受け入れ、共なる喜びを求めて祈り、今日もお仕えするのです。