ローマの信徒への手紙14章1-4節、申命記8章17-18節「強い人なら縛られない」

22/7/10主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章1-4節、申命記8章17-18節

「強い人なら縛られない」

「受け入れなさい」。直訳のニュアンスは「進んで身を前に向けて前傾姿勢で受け入れなさい」。その人の考え、信仰の意見の重箱の隅をつつくことのないため、そんな批判がましい態度で見下さないで済むために、むしろ進んで身を前に向け、相手を前傾姿勢で受け入れるのです。主が私たち皆に対して、そうしてくださったように。

その受け入れを既に具体的にイメージしたのが、右頁上の12章10節だとも言えます。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。相手を優先しなさい。自分を優先しないで。主が私たち皆に、そうしてくださったように。

ローマだけでなく、どの教会でも、それが難しく感じる時があるからです。え、何でそこにこだわるがと見下す時。反対に、何でこだわらんのかと裁く時。当時のローマ教会では、どうもユダヤ人キリスト者が、汚れた肉は食べんと、青年会主催のBBQを台無しにしていた(笑)。高知で言えば酒でしょうか。飲まれんにと裁く。それに対して飲む人は13章13節で言われるように、いや酒宴でベロベロに酩酊したらいかんけど、飲むがはかまんと。何が強いのかわかりませんが(笑)、飲まん兄弟姉妹の上に立とうとしたら、どうなるか。自分より相手を優先できなくて、間に線を引くことにならないか。そっちが超えてきたら受け入れようと。それが色んな形での、「信仰」の問題として起こるのです。

「信仰の弱い人」と言われますが、存外この人、日本の教会では信仰の強い人に見られるかもしれません。飲まんとかの禁欲主義など、強いこだわりを持つ人は真面目な人に多いのです。ただし、何にこだわり、何故こだわるかです。信仰は神様との信頼関係の間柄です。神様が何にこだわり、何を求められ、何をいかんと言われる、と信じているから、はいと従い、こだわるのか。何故そう信じるのか。もし、主が御言葉で言われるから、ではなく、例えば飲むのは自分を汚す悪に感じる。そう御言葉で言われなくても、気が咎め、悪く感じるから、しないし避けるし、する人を裁くのも、悪だと感じるから裁くのでしょう。また反対に見下すのも、十字架の主を見上げてない時に、見下すのです。

御言葉に従う信頼関係より、感情的判断で判断する弱さがある。でも無論イエス様を信じて、救いに、はいと言うてない弱さではない。弱いけど信頼に生かされているから、受け入れなさいと命じられるのです。その人を立たせられるのは、その人のために罪を負われて倒れ死なれ、その人の主として立ち上がられた主がなさることだからです。その同じ主が、あなたは、受け入れなさいと言われるのですから、はいと感情的判断は脇において、受け入れるのです。主が、こんな私でさえ、聖めてお用い下さるかもしれないと信頼して、弱いとか何でという感情の判断などに縛られないで、主の愛の力にお委ねして、受け入れ愛する。

何で弱いのかの理由は様々でしょう。幼い頃から異教徒の肉を避けて育った人が、もう食べてえいと主に言われても、肉体が受け付けない。以前ミッションチームで大阪に来た学生に、これは地元のソールフードだと中身を教えずに、たこ焼きを食べさせ、噛み切れない、何これ?と聞くので、オクトパスと言うとベッと吐いた。で、すごい良い人なので、幸生ごめんごめんと謝っていました。心からわかっていても、体と感情が受け付けん弱さを自己責任にして飲み込めというのは無責任でしょう。私は高さに弱く、瀬戸大橋を運転する時は産まれたての子鹿状態です(笑)。が、妻が運転する時は下をのぞけます。怖くない。だから高さでなく、自分が運転を誤り落ちる可能性が怖いのです。だから自分に言い聞かせる。平地で運転ミスらんろう、同じやきと。でも理屈じゃない。肉の感情が理屈を超えて判断するのです。無理、落ちる怖い怖い怖い。私の場合、悪とは判断せず、無理、落ちると感情が判断するのですが、それを助手席から、ハンドルをまっすぐ動かさざったら落ちんと、もし上から言われたら、その判断は正しいけど、死ぬほど正しいけど、俺の隣人にはなってないと、子鹿状態でも正しく判断し、愛がないと裁くのでしょうか。そしていずれの正しさも、何の助けにもならない。助けになるのは、かまんで、時速30キロでと、法定最低速度は50キロ以上と言っていても、えいで、一緒に責任を負うきと隣りで受け入れてくれ、一緒にゴールへと、キリストに結ばれた成長へと前進してくれる信仰の兄弟姉妹が隣りにおったら、主もそこで共におられます。

中風の友を床ごと担いできた四人の話を思い出します。群衆に阻まれ主のもとに行けず、主がおられた人ん家の天井を壊してでも!床を吊り降ろし、主に助けを求めた信仰を。誰の考えだったのか。人ん家の天井を壊すなど。きっとそれ自体は正しくない判断を、でも見下さないで、愛の責任を負って受け入れて、五人で一緒に主のもとに進み出た。その彼らの信仰をイエス様は見て(マルコ2:5)、罪を赦し、その人を立たせて下さいました。同じ主が、私たちを共に立たせて下さるのです。