ローマの信徒への手紙13章11-14節、詩編16篇「キリストを身にまとい」

22/7/3主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙13章11-14節、詩編16篇

「キリストを身にまとい」

闇の業はもう脱ぎ捨てて、代わりに、光の武具に首を通して着よう。光の武具。英語でarmor of light。光ですから重くはない。英語でlightは軽いとも言います。この後、聖餐を待ち望む式でイエス様から、重荷を降ろしなさいという招きの言葉を聴くのも、その故です。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」何故、休めるかの理由を、こう言われるのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。

闇の業、神様に逆らう罪の生き方は、色々とまとわりついて、重い。例えば13節の「争い」の直訳は、言い争い、お互いの文句の言い合い、互いを責める非難合戦。何と重たいことか。すぐ前に言われる「好色」とは、ブレーキがついてない欲望や行動です。でも本人は、ブレーキがついているつもり、止まれると思っているから、悲惨な事故を起こす。時間を巻き戻せない犠牲を出して、現実を知ってからでは、遅いから、だからそんな重荷を、どうか負わないように脱ぎ捨てなさい。もし今、既に負っているのなら、その重荷は、わたしが代わりに負うから、その罪の責めは、わたしが負うから、天の父は、そのことであなたを責めないから、わたしが代わりに責めを負う。それであなたは赦されて新しく生きてほしいから、わたしのもとに来なさい、わたしが背負って休ませてあげようと招かれるのです。そのイエス様に、はいと首を垂れる者をイエス様がふわっと覆ってくださって、赦し、聖霊様を注ぎ、神に愛される者、神の子よと、新しい人生を着させて下さる。それが洗礼です。そしてイエス様との人生を、ほっと新しく歩んで行ける。永遠の命の光のもとで。その救いの歩みが、軽やかなのです。

先週の説き明かしで、この闇の業をパジャマに譬えました。誰からも何にも言われず、好きにできる自分の時に着ている、夜の生き方をパジャマに譬えたのです。けれど、ひょっとパジャマを着てリラックスする習慣が身についちゅう方で、え、リラックスするがはいかんが?と重荷を負わせちょったらいかんので、補足します。今年の「一粒の麦」の最終頁に、いみじくも藍ちゃんが漫画で説き明かした通り、何が自分にとってリラックスできる、休みなのか、なのです。時に厳しい御言葉を聴くことになるのに、礼拝に来る、行かなと自ずと思うのは何故かと自らに問うても良いでしょう。十字架の厳しさの中でこそ光として迫る神様の優しさを、慈しみ深き味を、肉ではなく、霊で知っているからでしょう。その洗礼を受けたのです。主の臨在に、良かったとリラックスするのです。私が私の主ではない。私には主がおられる!主は生きておられる!恵みによって、完全な赦しの中で、私は兄弟姉妹たちと一緒に主を着て、救われて生きていけると、一緒に神様を礼拝できる喜びに、ほっと感謝をするのでしょう。

無論、世と罪が満たそうとする欲望の味も、肉ある人間として知らんわけではない。肉は自分を満たす欲望に渇く。頭は肉の渇きにほぼ無力で、ブレーキを踏めなくて、神様を求めるより、神様の愛より、自分を満たしてリラックスしたい。だから自分の思い通りにならんことに直面したら、争い、ねたみ、直訳は感情が沸騰してカチンと来る。何で思い通りにならんがと自分自分で不機嫌になり、思い通りになったら、神様抜きでも満足する自分。それが肉です。

その肉に「心を用いてはならない」と主は言われます。神様を避けて求める自分の欲望のため、肉を気遣い、肉の世話を焼いてはならない。肉が自分を自分をと求めて、まとわりついてきても、自分の思い通りに生きるがが満たされるがでと、イエス様に救われた私の主人になろうと欲望を駆り立てても、その肉の渇きを満たすお世話などしなくてよい。何故なら私たちには、洗礼において、この体を既に献げた主がおられるからです。だから自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です(12:1)。だから私たちは肉の欲望を脱ぎ捨てて、自分自分の生き方の具体的な行いを脱ぎ捨てて、私たちの主!イエス・キリストを着る。私の主よと、頭を下げて、イエス様のご配慮にこそ、はいと首を通して、キリストのものとして生きる時、ほっと休めるのです。主が、わたしは柔和で謙遜だから、わたしから学びなさいと言われた、柔和で謙遜なキリストのものとして、自分を脱ぎ捨てる柔和と謙遜の中に、隣人への愛も見つかります。いやむしろ、自分自分を脱ぎ捨てたいと思っても、闇に負け自分自分になる私たちを、連れ出すための隣人でもあるのです。主はそこにおられます。私が自分自分を脱いで、隣人と共に主の愛のもとに身を置けるように、わたしのもとに来なさいと招かれるイエス様を着て、私たちは、本当の私になれる。十字架の神様の満足も、そこにあります。