ローマの信徒への手紙12章17-21節、イザヤ書57章16-21節「もしできるならの平和」

22/5/1復活節第三主日礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章17-21節、イザヤ書57章16-21節

「もしできるならの平和」

悪を返さない、復讐しないという「しない」だけでなく「しなさい」「善をもって悪に勝ちなさい」と、積極的な生き方が告げられます。

してはならない、と言われるのは、十戒もそうですが、なのにそれをしたくなる人間の罪深さ故です。その罪と滅びから向きを変えて神様との信頼関係へと導くためです。けれど消極的な「しない」だけでは、そもそも神様の愛の形に創られた人間が、その愛に生きるという積極的な命にならない。いや人は、積極的ではあっても、その愛の形を壊す、自分が!に積極的な悪い生き方になるから、この御言葉の冒頭9節では「愛に偽りがあってはなりません」愛の仮面をつけた自分自分の偽善があってはならないと、冒頭から言われたのです。では、ごまかしの仮面を外して愛に生きるとは、どう生きるのか。それが「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を心がけ」生きること。つまり18節「すべての人と平和に」生きることを、心がける。つまり最初から心に決めるのです。他の誰の心でもない。他の誰かの話ではない。いま主の御言葉を聴いている自らの心に、はい、と心に決めなさい。これが私の生き方ですと、主の前に心を決めて、人を積極的に愛する平和に向けて歩みだしてごらんと励まされるのです。そうして、最初からそのためにあなたたちが創られた善い命、すべての人との平和を求める積極的な愛に生きることで、悪に打ち勝てと御言葉は励まします。

「誰に対しても悪に悪を返さず」、愛されてないから愛さない、どうして愛さないかんのかと悪を返さず、「すべての人の前で善を行うように心がけなさい」。「すべての人」は、すべての人です。すぐに繰り返して、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と言われる通りです。すべての人を愛する生き方を、平和に生きることを、すべての人が見て、それがやっぱり、人間らしい生き方でねえと、その人もまた、自分が生まれてきたわけを神様に見出せるよう、この人ともあの人とも平和に生きる、愛すると、心に決めるのです。

「せめてあなたがたは」と、まるで祈るように付け加えた言葉が人間の罪の現実を思い出させます。人と平和に生きることは決して一方の心だけでは成り立たない。聖書はいつも現実的です。人は大切な相手との平和が破れてでも自分の思いを押し通したいと思って、愛さないで、悪に負ける現実があることを、聖書は隠さんのです。

でもその悪に、あなたまで負けてしまうのでなく「善をもって、主の愛によって悪に勝ちなさい」。キリストに、はいとついて行けと言っても良いのです。負けても、つまずいても、くさらないで「わたしについて来なさい」と招かれるキリストの愛の強さに、はいと言えばよい。主は人間の弱さ、「もし、できるなら」という、私たちの限界を無視される方ではないからです。憐れみ深い羊飼いです。だから、自分にはできんと開き直る必要がないのです。

主は私たちのできる愛の業の限界をご存じです。なら、私たちを平和の道具として用いられる、十字架の神様を信頼して、イエス様、せめて私は、愛しますと心に決めて、その人に、できる愛の業をなせばよい。その苦しみをも主はご存じです。できる愛の業はないですと思うこともある。できる積極的な愛がなければ、悪を返さないという消極的な愛でもいい。せめてできるだけ穏やかにが限界なら、その限界で、イエス様の御名を呼び続けながら、十字架のイエス様の赦しの執り成しの祈りのもとで、これが私の愛の捧げものです、聖めて御用に用いて下さいと、イエス様と一緒に父に祈ればよい。あなたは何でもおできになります。あなたの救いの御心が行われますようにと。

あるいは精神的、身体的にも追い詰められて祈れない時には、主よ、憐れみたまえ、イエス様イエス様と、主に向けばよい。言葉にならない心の祈りを、主はご存じです。心に決めたはずの平和を求める祈りさえ祈れないその心には、だけど、そのイエス様の名によって赦すと決めた祈りが刻まれていることを、十字架の主の名によって愛しますと決めた心であることを、十字架の愛の主はご存じです。ならばこそ、私たちの弱り果てた愛をも、聖めて御用に用いてくださるのは、十字架の神様であられることを、主の名を呼んで信じてよいのです。

人間の愛では不可能な、私たちの平和の破れ口に、私たちの愛の限界の淵に、だから私たちは、それでも立てる。人間に絶望しながら、神様に希望をもって祈りながら、モーセの如く、海の真ん中に道を開かれる神様の愛の招きに、はいと心を決められるのです。