ローマの信徒への手紙13章1-3節、箴言29章26節「アンチの態度を改める」

22/5/8復活節第四主日礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙13章1-3節、箴言29章26節

「アンチの態度を改める」

上に立つ権威に、まあ高知の人は反骨で抗う人が多いかもしれません。空港に倒幕の志士の名を冠するばあですから(笑)、もうしゃあないかと自分も含めて甘えてしまいますが、御言葉が「神様の定めに背くことになる」と強調するのですから、襟を正さねばなりません。

権威に「従う」と訳された言葉は「下に身を置く」という言葉です。まず態度が要求されると言っても良いでしょう。言われたことをやればよいのではない。また、キリスト者として、できない時にも、下に身を置いての態度で、できませんと言うのと、権威に逆らうのとでは、結果にも違いが出んでしょうか。権威は神様が定められたのだからという、神様由来の理由があれば尚のこと、何も考えないで、はいはいと従うのでは無論ないのです。何を目的に、何を求めて従うのか、考えて従う。考えないで従う時に、道を外すことは多いのです。

何を目的に従うのか。それは、権威を立てられた神様に仕えるため。その目的にお仕えするためです。前頁12章1節に「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」直訳は「理に適った礼拝です」しかも十字架の憐れみの理屈に適った礼拝または奉仕として神様にお仕えする歩みとは、ではどんな歩みかと、今朝の権威の話にも続くのです。何故、権威の下に身を置くか。十字架の神様が定められた権威の目的がなるためにです。

では、権威が定められた目的は何か。一つは、その権威を用いて神様が悪を裁かれ、正義の報いを与えるためです。ほとんどの権威者は自分ではそれを知らんまま、その目的に用いられますが、それは次週詳しく説き明かします。ただそれを知る権威者は、謙遜にされんでしょうか。

もう一つは、そのことで社会が平和を保つためです。悪を裁くことで少しでも恐れが生じて悪が抑制され、辛うじてでも平和があるように。単に教会が迫害を受けないで平和でおれるよう従えという、自分だけの平和など眼中にありません。それは既に「迫害する者のため祝福を祈りなさい」「できれば、せめてあなたがたは、全ての人と平和に」と繰返し強調された通りです。キリスト者が、神様に従わない国家や他の類する権威に従うのは、単に迫害をうまく逃れてキリストが証しできるためにではない。迫害の中でも教会は主を証しするし、むしろ、そうやって悪を行う権威に対しても、悪に悪を返す生き方ではなく、できる範囲で、その権威を権威として尊んで、善をもって悪に打ち勝つために、十字架の憐れみの理に適った礼拝を神様に捧げますと、迫害する人を十字架のイエス様の名によって祝福することで、キリストを証ししてきた。教会が信じお仕えする神様は、神様に逆らう罪深い人間を背負って身代わりに償ってでも、あなたを赦すから、この愛の正義に生きよ、憐れみの義によって救われて歩めと、私たちが愛の義に共に生きることを命がけで求められる神様なのだと、証しをしてきたし、これからもするのです。神様の憐れみの力にすがりつつ、できれば、せめてあなたがたはの神様の憐れみの中で、平和の君、キリストの救いを証しして歩むのです。

権威に従う限界はあります。人間の平和の限界を主がご存じで、もしできるならと、憐れんで言って下さったように、従えないことも、無論ある。「神様に従わないであなたがたに従うことが、神様の前に正しいかどうか、考えて下さい」と使徒たちも言ったのです(使徒4:19)。でも、それを笠に着て、従わない態度でいるのは、神様にも従っていません。

従う者としての態度が必須です。アンチの態度でなく、赦された者の態度で、背負われ愛されている者として、愛と赦しを自分のこととして知る者の態度がです。権威の範囲を拡げて、親の権威を考えたら分かりよいでしょうか。子が与えられ同時に託される親の権威を、神様の愛の義に従って子を守る権威を、私は義しく行使しているか。いないなら、権威者にアンチの態度を持つのはフェアじゃないし、あの人よりはましと比べるのも、神様の権威の前に、十字架の主の前に立つ態度ではありません。あんな人も神様に立てられたのかと思うことがあっても。神様のせいでしょうか。同じ理屈で、何でこんな私がキリスト者に選ばれたのかと自らに問えば、神様に選ばれた者も罪を犯すこと、その人の責任であることを、思い直せばわかるのです。その罪の責任を、なのに引き受けて十字架で償い赦して下さった神様の権威も、そこで改めてわかります。三位一体の御子の死において罪と悪を裁いて、だから赦すと罪を赦して、あなたと共に生きる、あなたと平和に生きると決められた赦しと愛の権威こそ、私たちが信じ、愛して、お仕えする、十字架の神様の権威である。その権威を知って、ひれ伏して、はいとお仕えするから、その神様が、目的をもって立てられた地上の権威の下にも、従う態度で身を置けるのです。その従う態度で証しするのです。私たちが権威者を恐れないのに従うのは、十字架の神様を畏れ敬い愛するからですと。