ローマの信徒への手紙12章9-13節、申命記10章12-14節「十字架のもとにある力」

22/4/3受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章9-13節、申命記10章12-14節

「十字架のもとにある力」

キリストの兄弟姉妹たちが互いに愛し合う愛に、私は20歳で出会いました。その愛で、まだ神様を知らん私をも愛してくれた彼らのようになりたいと思って、教会に通いました。皆さんもそれぞれ、そうした「兄弟愛」の原体験があるのではないでしょうか。見えない神様を、でも信じたいと思わせる兄弟愛の体験。その愛が、キリストの兄弟姉妹の愛です。

10節の「愛し」と訳された言葉は「家族の親しさで愛する」あるいは「身内として愛する」という言葉です。愛にも色々あるが、身内として自然体で愛する親しい愛がある。相手への尊敬はあるけど、壁がないか低くて、その壁をヒョイと乗り越えてきて少し驚いても、嬉しかったりする愛の親しさ。むしろそこに自分への尊敬を覚えることもあるのではないでしょうか。それがキリストの身内とされた教会の、神の家族の愛だからです。天地を創られた神様が、父よと呼ばれることを求められる親しさと、そのために独り子を犠牲にされたほどの愛の尊厳、命の尊厳を、私たちは十字架のもとで知ったから、信じているから、はいと愛し合う。私たちは互いに、神様が死ぬほど愛されている家族だからです。

ならば互いに「尊敬」を持つとは、キリストが死んで下さったほどに愛され、求められている者として、互いに愛する敬いだと知るのです。「相手を優れた者と思い」とは、え~思えんけんど、思わないかんが?はい偉い偉い私より偉い(笑)といった、考えや気持ちの問題ではありません。それが偽りの愛、偽善であるのは言うまでもないでしょう。

「優れた」という日本語のニュアンスもあるでしょうか。日本では、人と比べて優れているという、優劣の考えに陥りやすいのです。

でも御言葉が求める偽りなき愛は、相手の行いや性格を理由に、愛し敬うのでは決してない。愛する理由はただ一つ、この人は神様から死ぬほど愛されている者だと、襟を正して敬いなさいということです。

「相手を優れた者と思い」と訳された言葉は「先導する」「先に行く」という言葉です。なら誰を先に行かせ「優先する」のか。相手と自分のどちらを優先するか。互いに自分の考えや感情を優先したら、嘘の愛になるしかない。互いにキリストに、はいと従う愛にならないからです。キリストが、ご自分を捨て私たちを優先されて、わたしに従いなさい、互いに愛し合いなさいと言われるから、その偽りなき十字架の愛の下で、はいと相手を優先して、互いに大切にするのでしょう。

「互いに」「互いに」と繰返されます。自分も相手も、この愛に互いに完全に従えないことを、赦しと憐れみが必要であることを、忘れないように。それでも「互いに」愛し合えるのは、12節が告げる「希望」が常にあるからです。愛せない者が愛せる理由、新たに造り変えられる希望がキリストにあって、あり続け、やがて私たちは主と同じ聖さに造り変えられる希望の約束がキリストにあるから!愛せない苦難も愛して尚受ける苦難も、でも私たちを愛されるイエス様の愛は負けないからと、希望の故に忍耐できるからです。自分や相手を理由にした途端、ペシャ。あるいは相手をやっつけたいと思うプライドに愛はつぶされます。

大抵は罪に油断し、大丈夫大丈夫と怠っている時です。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」と告げられる所以でしょう。

「たゆまず祈りなさい」とも告げられます。「祈りに集中しなさい」という言葉です。つまり神様と壁を作らない対話する関係に集中しなさい。これは私たちの生活が信仰生活、信頼生活であることの急所です。神様は直接には見えんから、見える生活のあれこれに気を取られて、自分やお金を信頼する生活に陥りやすい。またそれを隠す仮面をつける偽善に陥りやすい弱さを神様はご存じだから言われるのです。わたしと!対話する関係に集中せよ。わたしは主、常にあなたと共にいる、あなたの神だから、あなたが何をしていても、何を求めても、わたしと対話することに集中しなさいと言われます。罪の奴隷の生活、エジプトの生活から導き出される神様の道が、海が割れるようにして開かれ、神様が私たちと共におられる救いの真実を、人々も見るようになるためです。

「霊に燃えて、主に仕えなさい」とは、この見えない救いの神様に、常に共におられるインマルエル、主イエス・キリストに、はいと集中し続けることです。集中して神様を見続けなさい。信頼に集中しなさい。あなたを身内とされたキリストの御臨在にあなたの身を集中しなさい。その教会によって、神様が!救いの御業をなされるからです。

「聖なる者たちの貧しさを分かち合う」例えば自立連帯献金も、高齢を迎えた信徒数人で伝道者の生活を支えられない貧しさを、祈りに集中して分かち合う時、人やお金ではない、主の御業となるのです。「旅人をもてなすよう努めよ」。直訳は「他人を愛するよう追い求めよ」。自分や我が子の幸せは追い求めるけど、他人はという愛が当然の世界で、神様は、あなたは他人ではないと、私たちの愛をあきらめないで追い求めてやまない、神は愛だから、その神様の愛を、はいと追い求めるのです。