ローマの信徒への手紙12章3-8節、詩編127篇1-2節「一人一人支え合う恵み」

22/3/20受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章3-8節、詩編127篇1-2節

「一人一人支え合う恵み」

部分、部分と繰返されます。また、部分とセットになって繰返される言葉もあります。「一つの体」。一体という言葉です。

世の中でよく耳にするのは、部分と全体というセットです。これも体と書きますが、全てと、その一部、という考え方です。部分ですから、全体の中の部分、と考えるのは当然で、4節でも「すべての部分が同じ働きをしてないように」と「すべて」と部分を比較はするのです。が、ここが急所です。その全ての部分が既に一体!であることを考えないと、教会としての考え方が歪むのです。また、教会の一人一人が、私は教会の掛け替えのない部分だと考えて歩む考え方も、世に倣う、個人主義や全体主義へと歪みやすい。それが「キリストに結ばれて一つの体」一体であるというキリスト教会の考え方・生き方の、急所中の急所です。

わかりやすく言えば、私も含めて、全体を仕切りたい人は、こういう言い方をしやすい。全体のことを考えて、こう決めました。本当は全体なんか見えてないのにです。あなたの見ている限りでの全体でしょうと言いたくなることはないでしょうか。私のことを見てないじゃないかと思うこともあるかもしれません。それに対する言い訳として、俺は神様じゃないがやきと開き直ることもあるでしょうか。まさにその通りで、だから慎み深く、全体を見ておられる神様から各自に与えられた信仰の物差しに従って、自分には、この一部分が与えられているからと、その恵みを与えて下さったキリストを信頼して、はいとお従いする。それが教会の考え方、またキリスト者一人一人の生き方なのです。

その全体を見ておられ、その全体のために身を献げられ、その各自をご自身の一つの体に結ばれて、あなたがたは「一つの体だ」と言われるキリストのものに、各自はされた。だから、その各自が皆、はいと主に信頼する。キリストが、あなたはわたしの一つの体の、この部分だから、この働きをしなさい、と各自に言われて、各自、はいと応える。それで各自の働きは違うけど、一体として働くのです。自分のため働くのではない。それは、おおの体が言うことを聴かん(笑)という状態です。

こう言うともっと分かりよいでしょう。各自が恵みとして持つ働きは違いますが、全ての働きのゴールは一つです。救い主の体として、人々の救いのため生きる。私たちを用いられるキリストが!人々を救われるために生きておられる。私たちはその部分、しかも掛け替えのない部分部分なのです。ガリラヤ湖で説教されゆうイエス様を想像して下さい。口だけで説教できますか?のども働く。肺も必要。足は?座るお尻は?必要でない部分があるでしょうか?それがあなたであり、私たちです。私たちは今生きて働いておられるキリストの救いの御業の部分部分のお働きを担いつつ、大切な一つの救いのゴールに生きるのです。

その働きが6節で具体化されます。直訳は「もし預言なら、その信仰の類比に応じて。もし奉仕なら、その奉仕の内に。もし教える人なら、その教えの内に。もし奨励する人なら、その奨励の内に。分け与える人なら、無邪気さの内に。指導する人なら、熱心さの内に。憐れみを表す人なら、快さの内に」。もしもしと、電話(笑)みたいですけど、電話も相手が見えなくて、おる?聴きゆう?と確認するように、各自の賜物も、本当にこれがイエス様由来の恵みか、自分の思い込みではないかの自動的な保証はないのです。私なら、奨励と訳した説教や教え、指導の賜物を、教団の教師資格が自動的に保証はしません。そして、こっちが急所ですが、その説教や指導が、キリストの語られる御言葉でありお導きである保証も、何ら自動的にはない。教団や教会や誰か人間が決めた仕事や役割をやりゆうのではないし、あの人に任せちょったら大丈夫とか、あの人は能力があるきとかお金があるきと自動的に考えると教会は病むのです。教会は貧しいやもめが信頼の物差しで測って献げる銅貨2枚でキリストの御業を行うからです。もし皆さんの中に、私には分け与える賜物が与えられているのではと、主を信頼する物差しで自分を測って、というより、主に測られて神様の喜びを覚えるなら、「惜しまず」と訳された言葉は「単純に、無邪気に」です。自分の損得を考えると惜しいと思って愛が複雑になるけど、主のお働きのために、主が愛されるこの人のためにと単純に献げる愛には、イエス様の恵みの無邪気さが現れる。それは十字架の単純さ、自分の損は計算しない無邪気な愛です。

他の賜物である「奉仕」も「奉仕する人は、その奉仕の内に」。英語はthe奉仕の内に。それは、人の奉仕にちょっかい出さんということでもありますが、何故ならその奉仕は、キリストがなさる奉仕だからです。「もし」ですから、それの自動的な保証などない。でも御言葉によって語られるキリストの召しと求めを、はいと聴いたら、保証より何より、教会によって十字架の主が生きて働かれて人々が救われる、キリストの真実だけが欲しくて献げるのです。そのために主が各自の働きをご自身の御業となされると信頼して身を献げる。主にとっては、それで十分なのです。