ローマの信徒への手紙11章28-32節、哀歌3章22-33節「憐れみ深い御手の中で」

22/2/13主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章28-32節、哀歌3章22-33節

「憐れみ深い御手の中で」

不従順、不従順と繰返されます。あなたがた異邦人は、かつて神様に不従順だった。今はイスラエルが不従順だと言うのですが、じゃあ福音を信じた者たちは、もう不従順ではないのかと問われて、ああそうだ、こんなにも従っていると胸を張れる人がいるのでしょうか。むしろ福音とは、どうしても不従順で、神様の御言葉に従えない私たちを、なのに憐れんで救ってくださる十字架の神様を繰返し心に告げ知らせ、感謝と謙遜な悔い改めと信頼とを繰返し新たに生むから、福音、喜びの知らせであるのでしょう。

一枚前の頁左10章の最後でも既にこう言われていました。「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」。それが十字架の福音の神様なのです。不従順と訳された言葉の元の意味は「説得を拒む」です。神様が手を差し伸べて、わたしの憐れみのもとに来なさいと説得されるのに、嫌だ、自分の義しさで自分で救いたいと福音を拒む、あなたの罪をわたしは背負ったからと招かれるキリストの説得を拒む。アブラハム以来、神の民として選ばれていたイスラエルが、なのに福音を拒んで、もはや神様に従って歩んでなかったことが、なのに世界中に福音が宣べ伝えられ人々が救われていくこととなった。世界もイスラエルも神様の憐れみの説得が嫌。自分で生きたい。自分は義しいと信じたい。なのに神様が救いの手を差し伸べて止まないのはどうしてか。キリストの招きがなくならないのは、どうしてか。そしてだからこそ教会に、キリストに結ばれた兄弟姉妹に、主が、わたしに従いなさい、すべての人に福音を宣べ伝えなさいと、説得を、あるいは御言葉の説教をやめられないのはどうしてか。神様が、十字架の神様が、すべての人を憐れんで、その不従順を憐れんで、従わない者にならないで、信じて救われてほしいと愛してやまない神様だからです。

この9章から11章にかけての御言葉の説得が、いよいよここで頂点を迎えますが、その説得の背後に常にあったのは、イスラエルの救いを求めてやまない祈りと愛です。目に見えるところでは彼らの不従順しか見えなくても、迫害を受けても祈り続け愛し続けられるのは、その彼らを愛してやまない、神様の憐れみのご計画が信頼できるから。目で見えなくても、頭でわからなくても、神様が御子を犠牲にされてまで、人は救われなければならないのだと、イスラエルだけでない、すべての人を神様が愛されて、その憐れみのご支配の内に、御手を離さないでいて下さっている。その御手によって、私たちの不従順までもが捕らえられ、イスラエルの不従順さえ用いられて、世界の救いが推し進められたように、イスラエルも、いやどんな人も、すべての人が、不従順をもご支配される神様の憐れみの御手の内にあるのだと説得するのです。だから、福音の説得を聴こうとしない、神様の敵にしか見えないような、不従順を見ても、見て心が折れて、知るかとさえ思っても、イエス様が招かれるのです。敵を愛しなさい。その不従順は、わたしの手の中に捕らえられているからと。

神様がすべての人を不従順の中に「閉じ込められた」と訳された同じ言葉は、イエス様がガリラヤ湖の漁師だったペトロに、さあ漁をしなさいと招いた時に用いられた言葉です。既に夜通し苦労して網を打って、何も獲れなかったのに。でも御言葉ですから、従いますよと内心嫌々でも従ったら、おびただしい魚が「かかり」と訳されたのが、閉じ込められたという言葉です。その時、ペトロは気づいた。「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」。自分の不従順を知り、御言葉を信じない自分の罪を畏れと共に知って、不従順を裁かれる神様を今更のように畏れたペトロに、でもイエス様はこう言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:1-11)。

十字架の神様にとって不従順は確かに裁かれる罪であり敵であり滅ぼされねばならない悪であっても、その私たちを救うために御子を犠牲にされた神様にとって、それは妨げにはならんのです。十字架の神様は罪も不従順も頑なささえ御手に捕らえて、救いのために用いることのおできになる神様です。人間ではない。人間はあきらめます。愛を約束しても取り消します。洗礼を取り消しにして欲しいと願われることさえ少なくありません。だけれども取り消しません。神様が決して取り消されることがないからです。むしろ帰って来なさいと、放蕩息子を待ち続ける愚かな父として招き続け、愛を取り消されない。苦しみ痛み憐れみの炎に胸を焼かれても、この憐れみがあなたを救うからと憐れみをやめられん神様が、十字架の神様だからです。

だから恐れなくてもよいのです。家族の救いを祈りながら、心が折れそうになってなお、そこで繰返し福音を聴いて、自分の不従順も人々の不従順も御手に委ねて、御言葉にお従いすればよい。そして、十字架の神様の憐れみを証しする憐れみの器として歩むのです。