ローマの信徒への手紙11章11-12節、イザヤ書49章1-6節「罪さえ救いに用いられ」

22/1/16主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章11-12節、イザヤ書49章1-6節

「罪さえ救いに用いられ」

「決してそうではない」。この手紙で、何度も出てくる、この言い方。これが特別な、うんと強調するための言い方だというのは、お分かりだと思います。普段そんな使いません。おおの今朝も冷い…ではパジャマの上から礼服を着てよいということか。決してそうではない(笑)と、まあ、自分に気合を入れるために使うと楽しそうですが、言わんでも、わかっちゅうことには言わん言い方です。ということは、言われても、わからん、いや本当は分かっちゅうはずなのに、真逆に考えてしまう、あるいは本来と真逆の考えに逃げてしまうような時に、いや決してそうではない!と。十字架の恵みの神様を信じるとは、そう考えることではないのだと強調する時に、こう言うのです。例えばお開きにならなくて結構ですが6章15節でこう言われる「では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということか。決してそうではない」。うんとわかりやすい例じゃないでしょうか。

今朝の御言葉は、ユダヤ人が神様に選ばれた民なのに、まさに神様に選ばれたという意味のキリストが、聖書の約束通りに与えられた時に、受け入れなくて、イエス様につまずいてしまった。言ってみれば洗礼を受けてキリスト者となった教会員たちも牧師もが、なのに途中で自分を信じて新興宗教になるようなものです。それをどう考えればよいのか。彼らが自分を信じてイエス様につまずくなんて一体何が起こったのか。それをこの11章は、一つ前の頁に戻って頂いて11章1節、同じ言い方で問うのです「では尋ねよう。神様はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」。神様が、そんながやったら、もう知るかと放り投げられたのでは決してないと、つい神様のせいにしたくなる考えをこそ、退ける言い方だとも言えるでしょう。じゃあ神様は傍観者で、何もしないのか。そうではないと先週の御言葉、下の段7節で、彼らがイエス様につまずいたのは、神様が彼らを「かたくなにされた」から、だから頑なにイエス様を受け入れず、むしろ彼らこそイエス様を退けてイエス様につまずいたのだ。それは神様の義の御業がなされているのだと御言葉は告げる。そこで今朝の11節につながるのですが、この訳だとそのつながりがわかりにくいので直訳します。「では尋ねよう。彼らがつまずいたのは、倒れるためなのか。」神様が彼らを頑なにされて、それで言わば私たちが、ずっと祈っているのに家族や友人が信仰に導かれないように、それも神様が頑なにされてそうなのであれば、それは神様が、彼らに腹を立てて、まるで前から突いたり、後ろから突いたりして人を転ばせるように、つまり彼らを倒すために、頑なにさせてつまずかせたのだろうか。頑なにイエス様につまずき、受け入れられないままでいるのは、倒れるために、そうなっているのか。決してそうではない!それは神様が人を頑なにされる目的でも、神様の救いのご計画の中の誰かのゴールでも決してない。倒れることを目的に人をつまずかせることは、愛の貧しい人間がやることで、そんな目的は十字架で御子を罪人の犠牲とされた神様の救いのご計画の中にはない!

では何が、ご計画の中にあったのか。3行目「彼らの罪によって…」。罪と訳された言葉は、道を誤り道を外れて逸脱し、つまずいて堕落して転んだという言葉です。わたしが道であると招かれるイエス様を、いや違うと退けて道を外れた。その神様に対する罪を、けんど神様は、その逸脱をも用いられて、神の民でなかった世界中の人々に救いの道をもたらされた。その中に私たちもおるのです。しかも更に、その神様の救いのご計画は、本来、神の民であって、神様から退けられたわけではないイスラエルが、自分らが退けたイエス様を、教会が信じて神の民として用いられているのを見て、自分たちこそが神の民なのに、何で私たちが神様から見捨てられたように歩まなければならないのかと、義しい意味で神様に嫉妬して、こっちを振り向いて下さいと、求めるようになる。それが神様の目的なのだと御言葉は告げるのです。一言に絞って言えば神様を求めるようにさせること。それは福音書でイエス様が譬えを用いる目的でもあるし、旧約の預言が敢えてわかりにくくされている目的でもあるのです。神様は、私たちをご自身の三位一体の愛の形に創られ、私たちを求めることをやめずに、その名を愛と呼ばれる神様は、私たちもまた神様を求めることを求めて生きておられます。そこに初めて愛が満たされるからでしょう。一方通行ではない愛が、神様の目的が。

その神様のことを、なのに私たちは、まこと的外れに考え、考え方も向き合う態度も、道を外して逸脱しやすい。神様の愛の正義と憐れみと恵みを忘れるようにして、神様のせいやとか、神様がしてくれんとか、何で神様はこんなことをするのかと、御子をくださった父の憐れみから自分から落ちてしまうこと度々なのは、全ての神の民に対する父の悩みなのではないでしょうか。従わない者たちが憎くって、わたしは行動を起こす神なのか、人間を憎んでいるのか。決してそうではない!わたしはあなたがたを死ぬほど愛していると、私たちの十字架の神様は言われるのです。その恵みの神様を常に求め、考え方も、常にそこから考えるようにすればよいのです。少し先取りして言えば次の頁の12章2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神様の御心であるか、何が善いことで、神様に喜ばれ、また完全なこと(あるいはゴール)であるかを、わきまえるようになりなさい」。そのわきまえの実践が、今朝の御言葉なのです。

皆さんも聴いたことがあるかもしれません、コップに水が半分入っているのを見て、半分もと思うか、半分しかと思うか。私は、しかの方の貧しい人間なので、常に、恵み恵みと意識しているのですが、御言葉が導くのは、半分の方。しかもその理由が常にある。神様がそのことを恵みと深い憐れみのご計画の内になさっているからという理由があるから、罪と失敗さえ、富となるという言葉で見るのです。直接に、罪と失敗だけ見ない。私たちも、人の罪や失敗を見て、あるいは自分の罪と失敗を見て、それだけを見るから、責めたいし、また逃げたい、見ないふりをするのですけど、そこに神様を、しかも十字架の神様を見るから向き合える。しかも憐れみと恵みの態度で、向き合えるように変えられていくのです。罪そのものに、富になる要素はありません。それは御子が引き受けられ死ななければならなかった、損失以外の善い部分など何一つない、それ自体を肯定することはできないのが罪です。その罪さえ神様が引き受けて、深い憐れみのご計画の中で用いて下さるから、重荷を降ろして悔い改められるのです。ごめんなさいと向き合える。しかも罪を犯した当人でない者も、主の祈りを祈りつつ一緒に、ごめんなさいと向き合える。一緒に、これさえも復活の主は、きっと富として用いて下さるからと、ただ主の恵みを信頼して、恵みバカになって、恵みバカなら、笑われてもいいですと、愚かにも誰をも責めないイエス様の弟子として、ただ人の救いのため祈って生きられる。

御言葉が最後に、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば…と訳した直訳は「まして彼らの満たしはどれほどか」。失敗し失う罪さえ、誰かの救いの富となるなら、まして失う反対の満たしは、どれほど人々の救いのために用いられるか。無論、皆に救われてほしいから、退けられたのではない、倒すためでもない、決してそうではない、十字架の憐れみの神様なのだと、パウロも家族のために祈るのです。迫害されても、恵みバカになって、十字架の主の名を呼んで祈るのです。お救い下さいと。御心を満たしたまえと。信じて良い。愚かにも。十字架の神様が死なれて救われます。