ローマの信徒への手紙11章5-10節、詩編69篇23-30節「人間は何を求めるのか」

22/1/9主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章5-10節、詩編69篇23-30節

「人間は何を求めるのか」

曲がった背というのは、先に読んだ詩編で言うなら、重荷や苦役を背に負って苦しむ状態を言うのでしょうが、私が思い出したのは、何年も前に天に召された金田姉妹が言われた言葉です。姉妹はいつも最前列で礼拝を捧げておられましたが、高齢ゆえに曲がった背筋のまま御言葉を聴く姿勢を気に病んでおられたようです。ところがある時、私が祈った言葉にハッと目が開かれたようで、先生、私は神様を礼拝するがに背筋が曲がったままながが、うんと嫌で、神様に真っ直ぐに治して下さいと祈りよったけんど、御言葉は心の背筋を伸ばして聴くがですね、わかりましたと晴れやかな顔で言われました。その後、曲がった背で、しかし真っ直ぐに神様を仰ぎ、礼拝を捧げる姉妹の姿勢に、その後ろに座る人たちの信仰の姿勢が、どれだけ整えられてきたことかと思います。

今朝の御言葉は一見、厳しいだけの御言葉に見えて、このどこに救いがあるのかとさえ見えるかもしれません。確かに厳しさがないわけではない。でも、どうしてそれが厳しく見えるのか。そう見える自分の目は正しく見えているだろうかと問う心の眼差しは、やはり必要でしょう。むしろ自分を信頼するより、神様を信頼する眼差しから本来見えてくる救い、差し伸べられ続けている主の御手があるのではないかと、神様の救いの義を求める眼差しをこそ、神様は恵み与えて下さるからです。

イスラエルは求めているものを得なかったと言われますが、それは右の頁上10章3節で言うなら、彼らが「自分の義」を求めておったから、だから自分では求めていると思い込んでいた「神様の義」を、得られなかった。それを改めて繰り返します。言い換えれば、求めるべきものを求めてなかった。本来見るべきものを見てなかった。いや見えている、自分はそれを得ていると信じていたら、どうして求められるでしょう。

人は、もし、求めるものが違っていたら、本来見るべきものが見えんなることがある。これを見てと言われ、それを見るがやと頭で分かっていても、見えん。例えばルビンの壺という絵があって、向き合っている二人の顔の影絵にも見えれば、その顔の部分が背景になっている壺や杯のようにも見えるという絵。他にもあって、どちらにも見える。でも、どちらかが見え過ぎると、もう一方が、頭で知っていても、見えないと見えない。見ようとしても見えない。似た経験は、ないでしょうか?

私はよく、しゃもじが見えんなって(笑)、家族には見えているのに、私だけどうしても見えない。近頃では、またかと頭では分かっていて、助けて、しゃもじ見えん病になったと、でも半ば怒った声で言ってしまいます。こう思っているのです。俺以外の誰かがへちに置いたきや、俺のせいじゃないと。で、目の前にあったりして、あれ?とか言って自分をごまかそうとする。でもそれも実は○○が見えない病なんかでなく、自分は義しい病の、重い症状の一つなのです。自分は義しいというのは間違っていると頭では知っていても信じている。自分は義しいと。このどうにも頑なな頑なさを、知らん人がおるのでしょうか。

そして同じように自分には神様の義しさは見えている、わかっていると、自分の心の中だけでも、言える人はおるのでしょうか。

先に言いました、厳しく見える今朝の御言葉には、特に旧約から引用された御言葉のどちらにも「見えない目」「見えなくなるように」と二回も繰り返されます。特に先の詩編から引用された祈りは、自分では報復ができんから、神様が言わば呪って下さいと願うような、え?神は愛やないがと思いたくなる厳しさがあります。が、そう祈る他ないほど相手から罪を犯され追い詰められ、むしろこんな不正と不義をそのままに、皆が天国に行けるがやきとでもいう神は、愛に見えんから祈るのです。正義を求める祈りを、聖書は祈る。そして、その祈りを今朝の御言葉は引用して、じゃあ何をしているのか。イスラエルが頑なに自分の義しさに固執して、神様の義が見えず、だから神様の救いの義である十字架のイエス様の救いを求めないのは、イスラエルが悪いのだから、自己責任だから、知るかと放っているのか。彼らの救いを、祈りもしないのか。いや、祈るのです。神様の正義を求める祈りを引用して、その神様が、イスラエルを頑なにされたから、だから彼らは頑なになっているのだ、見えなくなっているのだ、これは神様の義の御業がなされているのだと御言葉によって神様の救いを説き明かしているのです。

「食卓」というのは、例えば詩編でもうんと愛されている詩編23篇で「私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えて下さる」と神様が苦しみの中でさえ与えて下さる命の保証、救いを保証するしるしだとも言えます。人を追い詰めるほどの罪を犯しているのに、食卓を囲んで、自分たちの命の保証を楽しみ、自分らは大丈夫だと思っている、その食卓が、でも実際には何にも保証してないから、罪に対して正義の裁きをなさる神様の前では、何の保証にもなりはしないから、自分の罠になるのです。自分は大丈夫だと信じている、その自己信頼につまずいて、その罪を身代わりに背負ってでも、赦すと決められた神様、十字架で正義を自ら全うされることによって、だから帰って来なさい、わたしはここにいると、救いの御手を差し伸べ続けておられる神様に、つまずくのです。それが「見えなくなる」ことです。そして単に見えんだけでなく、その見えてない対象が、単に、ああ、こっちが正解なのに見えてないというような、生きてなどいないし、傷つきもしない真理とか正解とかでは断じてなく、神様が見えなくなるとは、どういうことなのか。

皆さんも体験があるのではないでしょうか。苦難に襲われ、それまで自分には見えていた、わかっていた、神は愛だと思っていた神様が見えなくなって、わからなくなって、信じてはいるけど、信じられなくなるぐらい苦しくなって、信仰を捨てたがましなんじゃないかとさえ思える神様が見えない苦しみの中で、でも、イエス様!と、十字架の主の名を呼んで叫び求める他はない。祈る他ない。だって本当に生きておられる神様でなかったら、私は誰によって救われるのか、あなただけが救い主ですと、生きておられる神様を呼び求める恵みに、捕らえられたことがないか。十字架のイエス様の、神様が見えない苦しさにすがるように、我が神、我が神、何故わたしを見捨てられたのか、見捨てないでください、遠く離れないで下さい、ごめんなさい、わたしを赦して下さいと、イエス様の御名にすがって、神様を求める恵みに捕らえられ、ただ神様を信じ信頼して、神様の食卓にあずかる恵みの御業を、主はなされる。神様が見えなくなる試練の中で、十字架で死なれたイエス様が、いや、死んで神様の救いの義を全うされて復活された主が、万事を共に働かせ益となされる救いの御業をなされるから、私たちは十字架の恵みの神様を信頼して、生きておられる神様の前に、ひれ伏して祈るのです。

神様が見えなくさせたのなら、希望があるからです。神様が見えなくさせられたのなら、むしろ、どうして私はそうじゃないのかと、神様を畏れ仰ぎ、十字架を仰いで祈りたくなるのではないでしょうか。

神様を信じ、神様の救いを信じるとは、やはり頭で分かって、見える類の救いの図式ではないのです。結局は救われますからというのでは、決してない。そう見えている時には、見えてない。わたしに従いなさいと呼んでおられる神様が見えるのは、そこに恵みがあるからです。

十字架のイエス様が、今も御手を差し伸べ続けられておられる救いの御業は、見えなくなることによってでさえ、見えるようにと導かれる、万事を共に働かせて益となす恵みの御業です。その神様を曲がった背筋で見えない目でも仰ぎ、仰ぎ信じるから、その救いを祈るのです。