ローマの信徒への手紙11章1-6節、詩編100篇「信じてよい恵みの主を」

22/1/2新年主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章1-6節、詩編100篇

「信じてよい恵みの主を」

ここには、私たちがどんなことを考える時にも必要で、極めて重要な二つの考え方が教えられています。例えば預言者エリヤのように、もう何もかもダメじゃないか、何で私だけがと、孤独に陥って考えてしまう時も、あなたは再度ここから出発し直すことができると、新しい思いで新しく世界に送り出される。そういう考えの出発点。それは、そこから新しい生き方が生まれる、態度としての出発点だとも言えます。

その一つは、何を考える時も、自分を計算に入れて考えることです。逆に言えば他人事のように、自分を例外にして考えない。イスラエルは退けられたのか。いや私もイスラエルの一員だと。もっとわかりやすいのは、人の過ちを、自分も同じことをしているのに、自分は棚に上げて裁いてしまう態度。あなたはどうなのかと神様に問われて、ハッと考えの態度が間違っていたことに気づくことは、あると思います。

もう一つは、神様の恵みから、すべてを考えることです。常に神様を信じて物事を考えるとも言えますが、その神様を恵みの神様と信じているか、恵みが出てこない神を考えてないかは、私たちの言葉と行いとに染み出るものです。人は神様を、どんな神様だと信頼してよいのか。

細かいことですが、私はキリスト者との会話の中で、ラッキーという発言が出たら、穏やかに、ラッキーちゃうきと言って微笑みます。運が良かったという考えでなく、慈しみ深い主の恵みゆえだからですよと。

恵みとは、自分には理由が一切ないのに、相手から注がれる慈しみと愛です。神様が恵みによって私たちに向き合って下さる。だからどんな小さなことでも、ここにも神様の恵みがある、これも、あれもと恵みを数えて感謝する生活と態度でいられる。それは何と幸いなことか。またその態度自体が、どんなにありがたい聖霊様による恵みでしょうか。

でも人間は、自分が良いことをしたから、ご利益を恵んでもらったのだとか、恵みをもはや恵みとしないで、行いによって考える悪い習慣が染み付いているのも事実でしょう。譬えれば、ある工場が立ち並ぶ町を通ると、すぐ気づく匂いがある。でもその町に常に住んでいる人は慣れてというか、その匂いが自分の衣服にも髪の毛にも家にも染み付いて、自分の一部だから気づけない。え、何か匂う?行いの匂いらあする?と。

恵みの神様から出発して考える恵みの習慣、主を信頼する生き方は、確かに行いから考えるこの世では、異世界の考え方、生き方でしょう。でもそれが、まったくの恵みによって御子イエス様を世界に与えられた父が、わたしをそのように信頼しなさい、それがわたしだからと求めておられる生き方の態度であり、それが信頼関係としての信仰なのです。自分を常に根拠にしたい、恵みが嫌な罪人のために、だからこそ御子を犠牲にして、それでも償い救うと決められた恵みの神様から、恵みから一切を考える。恵みから出発して生きる態度と生き方。そのキリストの香り、確かにこの世の生き方とは匂いが違う、キリストを信じる香りを教会は運びつつ、異世界、御国を来たらせたまえと祈って、御国の救いを宣べ伝えます。それが神様の恵みの福音宣教だからです。キリスト者として生きる証しが実を結ばず、自分がキリスト者であることに孤独さえ覚える時でも、私たちは、この恵みの神様から出発して、キリストを信じること自体が、異世界の恵みの内にあると信じて良いのです。

ここでは主の恵みを信じないイスラエルを、神様は退けられたのかと問うたのですが、それを例えば、教会から離れてしまった兄弟姉妹や、ずっと祈っているのに、どうして信じてくれないのかと思う、私たちの家族や隣人に当てはめてもよいのです。それは、神様が彼らを拒否しているということなのか?決してそうではない!と、「同じ様に」(5節)神様の恵みのご支配を信頼して、執り成しの祈りと証しを続けてよい。恵みに生かされる私たちを通して、キリストは彼らにその救いの御腕を差し伸べ続けておられるのだからと。私たちの行いから出発しないで、キリストの恵みから出発して、主の愛の業を引き受けるのです。

続く7節からの御言葉は、厳しい言葉が続きますので、少しだけ先に説き明かしますが、こうした厳しい御言葉を私たちの状況に当てはめて考える時も、恵みから考えるのです。行いによるのではないという基本は、恵みに選ばれた側の理由だけでなく、恵みに選ばなかった理由も、同じ理由から神様はなさるからです。恵みを受けた人は行いによらないが、受けなかった人は行いによるという考え方は、人によって態度を変える偏った神を考えることだからです。神様は永遠に変わらない真理の神様です。偏った態度と理由で人の扱いを変えるのは、罪が染み付いた人間のすることであって、それを神様に押し付けて考えるのも人間から出る考えで、十字架の恵みの神様から出た考えではないからです。

でもそのように神様を考えてしまう歪んだ罪も、神様は確かに十字架で引き取って、ご自分に押し付けて償って下さった。その恵みから出発して、キリストを信頼して歩めばよい。それが恵みの神様だからです。