ローマの信徒への手紙10章14-15節、イザヤ書52章7-10節「暗い夜にこそ美しい光」

21/12/12待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙10章14-15節、イザヤ書52章7-10節

「暗い夜にこそ美しい光」

どうして、どうして、どうして、というリズムをお感じになられたと思います。ここでの、どうしては、どのようにして、どうしたらという意味ですが、連続で畳みかけるような説得のリズム、福音説教のリズムが、ここにあるのはおわかりだと思います。

先週の10節から13節で翻訳では割愛された各節の「何故なら」という説得のリズムが、違う形でガッと流れ込んできて「では、どのように…どのようにして」と、うねるような説得をする。

どこに向かってか。この御言葉をキリストの御言葉として聴く者に、何を説得するためか。このことをです。それが最後のイザヤ書の引用です「良い知らせ、福音を伝えるあなたの足は、何と美しいことか」。少し説教の言葉に言い換えましたが、この御言葉をキリストの御言葉として聴いたら、他に聴きようはないでしょう。またその時に自分たちの足が美しく感じるとしたら、それはその私たちの足をキリストが洗って下さり、もみほぐして下さり、頼んだよ、これはわたしの足だと、聖別して下さっているキリストの御声を、畏れつつも明るく聴くからでしょう。

改めて、なぜ私たちはここに生かされているのか、その目的を知らせる、キリストによる派遣の御言葉がこれです。私たちがいま生かされている、この場所、この教会、それぞれの家庭、学校、仕事場、地域に、何故、私たちがそのメンバーとして存在しているのか。偶然か。目的があるのか。あるなら、それを使命、聖書では召命と呼びますが、どんな目的がそこで与えられているのか。ただそれを知るだけでなく、ここに私は神様から派遣されているのだと襟を正すことは、その目的に生きるために、重要です。何故ここにいるのか。私たちは神様の救いの目的が実現するために、ここに、ここにと選ばれ派遣されているからです。

上の4節で「キリストは律法の目標、ゴール、目的であります、信じる者すべてに義をもたらすために」と言われた、キリストを信じて義とされる救いを、皆が得ること。それが私たちの派遣の目的です。つまりキリストを信じる救いが、では、どのようにもう既に来たし、今も来ていて、またこれからも来つづけるのか。どのようにか。このようにだと今朝の御言葉にガーっと流れ込んできて、こう言うのです。14節以下、少しわかりやすく言葉を加えながら言い換えます。

「では、信じたことのない方を、どのように呼び求めるようになるというのか(信じることによってだろう)。しかし、その方のことを聴いてなかったら、どのようにその方を信じることになるというのか。また、宣べ伝えることから離れていたら、どのように聴くことになるというのか。そして、もし、その人たちが遣わされたのでなかったとしたら、どのようにして宣べ伝えようというのか。福音を宣べ伝える者たちの足は何と美しいことかと書いてある通りです。」

「もし、遣わされたのでなかったら」というのは、つまり遣わされている以外ないじゃないかと奮起させる説得です。遣わされてないなら、いま生きておられるキリスト、この人にわたしを届けてくれと私たちを遣わされている主を宣べ伝えることはできません。つまり、主から遣わされているから、そのイエス様を信頼し、助けて下さいと祈りながら、自分から出るのではないキリストの愛の言葉を、折が良くても悪くても宣べ伝えられるのです。そこに主の御業はあると信じられるからです。

自分がイエス様から遣わされているのかと、実感がないと思うこともあるでしょう。それを自分のこととして知る一つの道は、祈りです。心の内に浮かぶ、誰かの救いのため、家族の救いのため、友人の救いのため、近所、職場の隣人の救いのため、主の名を呼び求めて祈る時、この人は救われなければならないと、わかります。神様がこの人を愛しておられる。そして主は私を用いて、この人を愛され、キリストの救いへと召しておられるとわかる。そのわかり方は、正しい神学的知識を得て、ではありません。むしろ心で、この人は愛されるべき人だ、これは神様から出た愛だと、その人と共に立とうと思うようになって、優しく語りかけ、あるいは語りかけられなくても心の中で、主よ、この人をお救い下さいと祈るようになる。その時、私たちの足が、キリストと共にその人のために立っていることを、そうやってキリストから派遣されている恵みの美しさを、派遣された方の御業を、信じて良いのです。

大事なのは、その美しさが、福音を宣べ伝える足の美しさであって、口の美しさでも、声や言葉が美しいのでもないことです。

私に福音を伝えるためにイエス様が派遣してくれた美しい足は、幸生の生きる目的は何?と、一番大切な質問をしてくれました。皆さんも、時にはズバリ聴いてみたらよいと思います。急所は、自分自身がそれに生きていることです。何でしょう。あなたの生きる目的は。私に遣わされたその美しい足は、自分自身、生きる目的を神様の愛の内に見つけた人でした。その足は不思議としっかり立っている美しさがありました。その足を強く立たせているキリストの愛と救いを、彼は私にも伝えてくれました。私にも、その愛に生きてほしいと願ったからです。他にも、幾人かの美しい足が私のもとに主から遣わされてきました。ズバリ質問をすることはありませんでした。ただ私を一人の人間として大切にしてくれました。すごいシンプルなことです。私は優しくされ、配慮され、愛を感じました。何じゃ、この生き方はと思いました。きっと多くの人が、それを美しい生き方だと思うのではないでしょうか。

足とは、その人の生き方を現わすものでもあるでしょう。どのような歩み方をしているか。そもそもどんな立ち方をしているから、その足が美しく思えるのか。モデル立ちのように細く見せる立ち方とは関係ありませんが(笑)、確かに、その立ち方を見る人の心に影響を与えるという意味では、私たちは、自分たちがどんな立ち方をしているか、キリストの前で、私たちを派遣された方の御言葉を聴くことによって、知らされる必要は常にあります。もし、私はこのために生きているという生きる目的を伝えているつもりなのに、それが伝わってなくて、むしろそれと違う立ち方をしているが故に、あなたは自分のために生きているじゃないかと思われるなら、それはその人が福音を聴いてないからではない。聴いたのに信じないのでもない。主から福音を伝えなさいと派遣された私たちが、福音を聴いて信じて歩んでないことが伝わっているからかもしれんのです。福音を信じること、キリストに頼ることが、どれほど口だけや頭だけになりやすく、いかに教会もまた上の3節でイスラエルが陥った、自分の義に陥りやすいかを思い知らされながら、です。実際にそこでこそ私たちは、人に福音を宣べ伝えることが、伝道することが、私たち人間の熱心さや能力によるものではないことを、挫折と自己放棄の中で知り直すのです。自分には伝道などできないと、自分自身を見て思うのは大いに正しいのです。できません。だからキリストが、わたしがあなたを遣わすと、遣わされないでは、どうして宣べ伝えることができようか、決してできないから、わたしがあなたを遣わすと、十字架と復活のキリストの御声を聴く者を派遣されるのです。光は闇の中で輝くからです。力は弱さの中でゴールに向かうからです。自分の罪も、その罪が十字架で背負われ赦されたことも正しい知識にしてしまう、信仰と愛の暗い貧しさの中で、その私たちを救いに来られたキリストの福音の光に私たち自身が照らされて、闇の中を歩む者たちに光が訪れた、主が私たちを救いに来て下さったと、信じて宣べ伝えるために、主が遣わして下さいます。主の憐れみの美しさが輝く福音を伝えるためにです。