ローマの信徒への手紙10章10-13節、ヨエル書3章「心から救い主を呼ぼう」

21/12/5待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙10章10-13節、ヨエル書3章

「心から救い主を呼ぼう」

ここには豊かな福音説教のリズムが波打っています。上の2-4節でも各節の冒頭で「何故なら」と繰返された説得のリズムが、今朝も各節の冒頭に繰返されます。その直訳のリズムで10節以下お読みします。

「何故なら人は心で信じて義とされて、口で公に言い表して救われるからです。何故なら聖書が「主を信頼するすべての人は失望することがない」と言っているからです。何故ならユダヤ人とギリシャ人の区別はないからです。何故なら、すべての人の同じ主が、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かであられるからです。何故なら「主の名を呼び求めるすべての人は救われる」からです。」

アーメン!という、応答を求める呼びかけとなっていることを感じて下さったらと願いますが、それは聖書全体についても言えることです。今のようなリズムはなくても、聖書は単なる教えではなく、必要や興味のある人が学ぶための知識ではありません。むしろ自分には必要ないと思う人が御言葉を聴いて、これは私に向けて神様が呼びかけているのではないか、この命の在り方は私の命のことだと、神様の御声を聴くために、そして御声に応答するために聖書は与えられているからです。礼拝で必ず聖書が読まれ、その説き明かしが説教されるのは、そのためだと改めて襟を正しキリストに向き合うのが今朝の御言葉です。

上の5節で「律法による義について」は「記し」書かれたと言うのに、6節「信仰による義について」は同じく旧約から引用しながらも「述べられ」と、つまり言われていますと敢えて言い方を変えるのも同じ理由です。黙って掲示板に必要事項を書いて済ますような自己責任の義は、心に呼びかけ語りかけ追いかけて下さる神様の救いの正義ではないからです。しかも今朝の御言葉は「すべての人」の創り主であり救い主なる「同じ主が」わたしを信頼しなさいと熱く救いへと呼びかけておられることを繰返し繰り返し強調します。だから心に、これは主の私への呼びかけだと御声を聴く人は、その呼びかけに応答する。心で主を信頼し、口で信仰の告白をするのです。

洗礼準備会の時、洗礼式での誓約の問いの意味を学びます。「あなたは主イエス・キリストの救いの徴である洗礼を受けることを心から願いますか」。これは単に親が願うからではない。他の誰が願うからでもない。唯お独り、私のために命を捨てて下さった私の救い主が、信じなさいと願われるから、そのイエス様に応答して、私はイエス様を私の救い主と信頼し、公に言い表し、洗礼を受けることを願うのですと、イエス様と私の間柄のみを理由に洗礼を求める。それが心から願うという意味だと学びます。それは、ともすると本音と建前を区別して、人目を気にする日本では、心で信じるというのを、心で信じていたらいいのだと、自分だけの事柄にする誤解が多いからです。

救いの信仰は、しかし今生きて呼びかけておられる主との信頼関係の間柄です。自分の心の事柄ではない。昔よく耳にした心の豊かさとか、他の人との関係さえも、自分の心の豊かさのためと思うような、自分のためにという話ではない。むしろ心も救いも、自分の話にしてしまう心の貧しい私たちに、12節で言われるように「ご自分を呼び求めるすべての人に豊か」に向き合って下さる十字架の主が、その心の貧しさも何もかもわたしが背負ったから、わたしが一緒に向き合うから、赦しと恵みと慈しみによって豊かに向き合うから、あなたはわたしを呼び求めよと呼びかけて追いかけて求め続けて下さる。だからそのイエス様との関係の中で、主がまず私たちを呼んで下さって、その御声に心から、助けて下さいと信頼して、イエス様を呼び求める。この相互関係の信頼の中で人はイエス様の豊かさの中で救われるのです。あなたは心が貧しいから出直せとは決して言われない主によって。むしろ心の貧しい者こそ幸いだ、わたしはそのあなたを救うために来たから(マタイ5:3)と、福音の説教を聴かせて下さったイエス様によって、よく信じてくれたと喜んで下さる信頼関係の中で、人はイエス様を主と呼んで救われるのです。

その神様と人格的に向き合うことを「心で信じて」信頼してと言うのです。形だけでも、口だけでもなく、自分そのものを、お願いしますと背負って頂く。それが人格的な信頼です。感情ではありません。例えば説教にいつも感動しなくてもいい。先生、ぜんぜん感動しなかったけど正しい内容でしたねと言われたらカシャ~ンと心の音が聞こえるかもしれませんけど(笑)、それでも信じているのです。貧しい私を用いられて主は御言葉を語られるし、その御言葉を皆は聴くのだと。私がどうしたこうしたを遥かに超えて、私たちの努力や熱心・不熱心を超え、弱さも罪も悲しみも、悲しみさえ感じない心の貧しさも何もかも引き受けて、主が豊かに私たちに向き合い救って下さると、主の名を呼び求められるからです。弱い羊でいい。羊のために命を捨てる良い羊飼いとして来て下さったクリスマスの主を、一緒に呼び求めればよいのです。