21/10/10朝礼拝説教@高知東教会
ローマの信徒への手紙9章6-13節、マラキ書1章1-5節
「約束を曲げない義しさ」
約束を、何で人はするのか。ただそれを行えばいいのに、と言ったら約束した人は悲しむでしょう。何で約束するか。信じる関係を持ちたいからでしょう。そうして、わたしのことを知ってほしい、そして喜んでほしくて、あなたに救いをあげると、神様はキリストによる救いの約束を私たちに約束してくださっている。信じてほしいのです。その約束は確かだ。その救いをくださる神様も確かだ。揺るぎないと。
では何ゆえに、確かなのか。約束の根拠11-12節で言われる「神様のご計画」が確かだからです。その確かさの頂点、ここが崩れたら計画は失敗という頂点は、永遠の御子の十字架の死による罪人の償いです。私たちもイスラエルも含めて失敗だらけの罪人の償いです。その死が成し遂げられたから、それが復活によって明らかにされたから、神様の憐れみによって罪人を救われるご計画は、まったく揺るぎない。イスラエルが、また私たちが、どんなに失敗しても、悔い改めて喜べるほどに。
その救いの確かさは、9章の前の8章で神様の愛の確かさとして宣言されました。その愛がここで再び語られます。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」。それはヤコブを選び、エサウを選ばなかった、という意味です。では何で選ばれたか。そこでイスラエルはつまずきました。「人の行い」つまり自分を理由にしたからです。自分の外にある約束を信じて義とされたアブラハムの子に、なれなかった。アブラハムの子孫は自動的に神の民、神様の子供だと、約束を曲げてしまったからです。
それに対して御言葉は、神様の子供は、肉から肉へ自動的に生まれるのではない、約束によって生まれるのだと、約束の子イサクが生まれる話を引用します。100歳と90歳の老夫婦に、肉体的に、人間に不可能な子供が生まれるのが神様の子供だからです。これは私たちに、いや自分が信じたのは自分の力で信じた、頑張って信じた、不可能じゃなかったと思い上がり、自分自身で不確かになることを避けさせる言葉です。
だから10節で「それだけでなく」と更に付け加えて、ヤコブとエサウの話をし始める。もし、イサクだけで終わってたら、言わば楽なのに。イスラエルは御言葉を曲げて考えたのが悪かった、正しく理解したら俺みたいに信じれたのにと、結果論から自分を根拠にして救いを考えさせんのです。まだ生まれる前に!善いことも悪いこともしてない!のに、つまり人間の正しさによらず!です。どうしても自分に正しさを求めて救いを考える私たち、神様がわからない、御言葉を曲げて、その愛さえ曲げて考えて迷って生きてしまう、人間を、神様は、ご自身の義しさによって救うことをご計画なさった。それがキリストによって罪人を救うご計画、主の福音だからです。人間じゃない!だから確かなのです。
不確かな自分を確かだと思いたい、それ自体がもう不確かでしょう。違うでしょうか。これは愛の確かさの話だと先に申しましたが、逆に、人の愛と憎しみこそ不確かで気分屋で無計画だから、この話が選ばれたと思うのです。例えば永遠の愛を誓うという文句は、私、司式をする時に、決して言いません。むしろ私自身ここで挙式したことに襟を正し、結婚準備会また洗礼準備会でもこう教えます。人間の愛は不確かです。だから神様の前に、確かな愛と選びを約束されるキリストの十字架の前に、祈って約束するのです。主よ、あなたの愛によって助けて下さい、その愛を信じます、あなたを信じますと。相手を信じられなくなる時、自分の愛が気分屋で信じられない時に、憎しみしか信じられない時に、そんな私たちを、神様が選ばれたと信じるから、自分では愛せないのに生きられる愛がある。その信じるしかない神様の愛の確かさを信じて、降参して一緒に生きてくださいと、キリストの御前で伝えます。
では、神様がエサウを憎んだとは、何か。「愛する」が「選ぶ」という意味なら、これは選ばない決断をした、というヘブライ的表現です。
例えばイエス様が(ルカ14:26)イエス様についてきた大勢の群衆に向かって「もしわたしのもとに来ても、自分の家族兄弟、そうだ、自分の命さえ憎まないなら、わたしの弟子にはなれない。自分の十字架を負ってわたしについて来ないなら」と言われた。つまりイエス様は優しいなあと今は愛してても、聴きたくない厳しいことを言われたら憎しみに変わるような、自分を選ぶ不確かな関係は、主と弟子という関係ではない。むしろ、あなたを選び、自分のことは選ばず、後回しにしますと、イエス様が私たちのために十字架を負われたように、選ぶこと、愛することを、聖書は選ぶと呼び、選ばない決断を憎むと呼ぶのです。
「わたしはエサウを憎んだ」と言われるのも、約束の子として、神様は先に生まれたエサウを後回しにしてヤコブを選ばれた。でもマラキ書で、選ばれた当のイスラエル、ヤコブの子孫が疑うのです。どのように主が私たちを愛したというのか、口だけじゃないのかと不満があった。捕囚先のバビロンからエルサレムに、約束を信じて帰ったのに、生活が楽にならない。思ったのと違う。どこに神の愛があるか、口約束じゃないかと、神の言葉は効力を失ったのかと、神の愛をご利益宗教のように考えていた。つまり自分を根拠に考えたから、主は、選びが根拠だと。あなたが約束の民として選ばれて歩むとは、自分がどう思うか、自分がどう命を自己実現するかで、愛されていると決めることではない。それでも自分で自分を定めたいなら、エサウの子孫たちの姿を見よ。そして自分の力でやるという姿を信じるか。それとも、いや、そうではない、世界は、その創り主であり裁き主であられる主のご決断によって、その裁きと救いが定められていると信じるか。アブラハムの子孫、キリストによって世界を裁きまた救われると約束される主のご決断を信じるか。あなたの信じる信仰を告白せよと、人間が決める不確かさではなくて、神様が確かだと信じるように導かれるのが、この御言葉です。
そして、神様のご決断であるが故に確かなこのご計画は、神の御子が世界を背負って裁かれて救われるという、裁きと救いのご計画だから、そのご計画が進められるためのご決断の中にある、エサウを選ばないというご決断も、御子の死に背負われたご決断なのです。エサウのためにも、12使徒ユダのためにも、すべての人のために死なれることをご決断された神様のご計画の前に、愛に不確かな人間が、どんなに自分を根拠として、神様の愛を疑おうとも、どんなに神様につまずいて、ただ救ってくれたらいいのにとさえ思って、本当に神様の十字架が分からなくても、その神様が、あなたのために死んで、すべての罪を償って下さった。その救いのご計画は1㎜も揺るがない。それは不動の救いと愛の確かさとして与えられたご計画だから、その約束の御言葉を信じるのです。
この「計画」という言葉は先に8章28節で、既にこの展開を先取って啓示されています。おそらく聴いたことのある慰めの御言葉でしょう。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」
その神様を愛する愛が、どんなに揺れて不確かでも、その愛の出所を見間違うな。それは神様のご計画に召された者に賜わった愛だ。御子を与えられたのだ。愛も信仰も苦難も何もかも、万事が!共に働いて益となす。そのご計画が、どのように進んでいるのか、理解できなくても、どのように愛されたのですかと疑う時にさえ、これを信じてよい。万事が益となるよう共に働く。憐れみのご計画の中でエサウを憎むことさえ共に働かせ、ヤコブとエサウが、いや世界が生まれる前から、キリストによって罪人を救うとご計画なさった神様が、万物を超えてご支配なさる永遠に褒め称えられる神様、アーメン!この約束の神様を信じるのです。