ローマの信徒への手紙9章1-5節、出エジプト記32章30-35節「神様の知る愛の悲しみ」

21/10/3朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙9章1-5節、出エジプト記32章30-35節

「神様の知る愛の悲しみ」

兄弟たちのためなら、私自身キリストから離されてもと願っている。強烈な訴え、あるいは祈り、そしてそれなのに溢れる神様への賛美から始まる9章から11章に至る御言葉を、これから聴いてまいります。

これを訴えた使徒パウロの願いは祈りだと言いました。次の章1節ではハッキリこう言います「私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」。今回どうしてこの御言葉から説教するか。私たちもまた、未だ救われてない同胞、家族の救いを祈り求める悲しみと痛みを知っているからです。その悲しみが、イスラエルのために祈り続けたパウロと重なると知る時、私たちの祈りが変わる、祈りが神様に選ばれた祈りへと、主によって変えられると信じるからです。

パウロは冒頭から「私はキリストにあって、また聖霊様によって私の良心も証しするが、真実を言っている、嘘は言ってない」と訴えます。口だけの説得文句を並べているのではないと、イエス様と聖霊様に証言を頼んで、そうですよねと言えるほど嘘のない、悲しみと痛みがある。私たちも笑顔の裏側に、どうか救われてほしいと願う悲しみを隠す痛みを、知っているのではないかと思います。その人の救いを御霊によって祈り、イエス様の名によって、自分が代わりになってもよいと思うほどの十字架の悲しみと共に祈っておればこそ、もし生活に嘘が潜んでも、たとえ嘘だらけでも、これだけは嘘ではない。救われてほしい。

この9-11章で聖書が教えるのは、そのように悲しみと共に語られるイスラエル人たちの救いと選びです。あるいはどうして救いに向かって選ばれたのに、キリストを信じず救われないのか。選ばれたのだったら信じて救われるのが当然じゃないのかと、まるで自分の罪の現実を忘れたような自動的な救いと神様の考え方を、やめて、どうしたら十字架の救いの神様を信じて祈れるのか。どうしたら悲しみがなくならなくても信じて祈れて、5節のように神様を褒めたたえて祈ることができるか。その救いの奥義、福音の栄光へと私たちを導いていくのが、この11章に至る、信仰の祈りを支える御言葉です。

先に全体のゴールを短く申しますと、イスラエルの選びと救いの問題は、私たちの救いと選びと同じだ。つまりすべての人は、神様の全くの憐れみの選びの内に、キリストを信じて義とされるのが神様のご計画である。それは皆が、同じ。どうして選ばれたか。憐れみの故。どうして信じたか。憐れみの故。じゃあ信じてないのは憐れまれてないからか?その神様の憐れみを信じ切れない不信仰に対して、では、あなたは神様の憐れみを、一体どのように信じているのか。信じる他に何があるか。あなたは私たちが救われるために御子を呪われた神様を信じるか。他に何を信じるのか。キリストによって御自身を現わされ、一切をご支配されている神様が褒めたたえられますように!と、どうしても神様の義を信じる以外の何かを信じたい不信仰な者を、キリストの憐れみと選びを信じる賛美へと移し入れ、まだ救われてない友の救いを悲しくても祈るよう励ますのが、ここからの御言葉です。短くなかったですが(笑)。

パウロは兄弟たちが救われていない現実の中で、けれどその悲しみをもってキリストに肉薄していくのです。キリストから離されてよいとはキリストを信じてない彼らが今いるところに代わりに置かれてよいと。譬えるなら津波の後、救助隊が来て、でも選ばれた人しか救助できないと言う隊員に、なら私が残されてよいですと言うのに似ています、が!この譬えはキリストの現実を壊滅的に譬えられません。何をどうしても現実に届く一線を越えれんのです。この救助隊は、人間ではなくて神様だからです。人間が救うのではなく、人間が人間の理屈で選ぶのでもなくて、神様ご自身が、わたしのみが身代わりに見捨てられて、あなたを救うことができる神だ、わたしがあなたの主だと、まるで永遠の神様であられることさえも捨てるようにして、一切を超えて、万物をはるかにそびえた永遠から、呪われて死にに来て下さった。その神様に出会い、神様の憐れみに説得されてキリストを信じたから、その憐れみを信じるから言えるのです。兄弟たちの代わりに、その場所に捨てられてもよいと。キリストが捨てられたそのところで、私はなおキリストの憐れみを信じて、全能の神様の救いを信じて賛美できるからだと。何故か。人間の救いと選びは、まったく神様の憐れみから来ると信じれるからです。

自分には本当に何もない。何かあるから身代わりになれるなどと微塵も思えない。いや、そう思って、思い上がって神様の憐れみから離れる私たちを、憐れむと選んで、救うと選んで、神様が選んで、救いに来て下さった。代わって死んで下さった。わたしがあなたたちの唯一の完全な身代わりだと、すべての人の死と罪と呪いがわたしのもので、わたしの救いと選びがあなたのものだ、理解できなくていい、信じよ、わたしは主、あなたの神だと、信じる救いをくださった。そこには民族も差別も壁もない。神様がおられ、その救いを信じる愛と祈りがあるのです。