エフェソの信徒への手紙6章10-20節、詩編110篇1-3節「主の御力で祈り続ける」

21/8/1主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章10-20節、詩編110篇1-3節

「主の御力で祈り続ける」

この手紙の宛先エフェソや少し離れたコロサイの土地では、星座占いや魔術が相当盛んでした。12節で私たちの戦う相手だと言われる「支配と権威」うんぬんは、そうした天体の動きを支配する力が、人間世界も支配すると信じられていた迷信に対し、でもその背後には確かにサタンの支配があると、教え直した言い方です。なので実際に支配と呼ばれる悪魔階級があるとかではないのですが、人は迷信を含む様々な支配に、考えや生き方を束縛されています。何より神様の命がけの救いを、真剣に受け取らないよう束縛されてないか。キリスト者も、何で私は救いの戦いを真剣に戦えないのかと、信じてないのか?いや信じているのに、じゃあ何でなのかと、ハッと目を覚ますように祈る時、自分の内に外に働く様々な支配や束縛を、きっと見ることになるのです。

例えば今日はうまくいかん日やき、何ちゃあせんと、何それ?という思いに束縛されても、仮にそう思っても、毎日の祈りはやめんのです。気分によって祈るのでなく、御霊によって祈るからです。気分や自分に従うのでなく、いかんいかん、主よ!立ち上がり、私たちの愛する者たちを救われる主に従って祈るのは、常に御心だからです。

人が、また自分が、何に従っているか。誰に従う力が働いているか。そこに支配があることは、本当は見える。だから目覚めて祈るのです。支配を見んようにさせるのも11節の「悪魔の策略」に入ります。

これに対し、19節で「福音の神秘」と言われる神様の救いのご計画、あるいは救いの戦い方を、この御言葉は教えます。つまり先ずキリストの救いの中に自分を守る。そして戦う。17節後半と18節を直訳すると「すべての聖なる者たちのための、すべての忍耐と嘆願の中で、そしてこのことに向けて目を覚まし続けることによって、すべての時の中で、御霊の中で祈られる、すべての祈りと嘆願を通して、神の語りである御霊の剣を受け取りなさい。」目を覚まし続けることによって!では何に向けて目を覚まし続けているのか。何を見続けるから、祈り続けられるのか。それは、この御霊によってうめきながらでも祈る救いの祈りによって、救いの御言葉が語られて、それが愛する者たちを、悪魔の策略と支配、束縛から自由にし、解放し、そうでなければ受け取りたくないキリストの救いのご支配を受け取れるようになる救いです。これに向けて戦え。すべてのキリスト者自身、悪魔の策略から自由にされて、人々の救いのために毎日歩めるよう、毎日、御霊によって祈るのです。

今朝、目を覚まして集中したい御言葉の急所は、この祈りが「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と命じられている点です。

何故か。私たちの愛する者たち、友の救いのため祈り続けることを、やめてしまいやすいからでしょう。おそらく誰もが知る肉の弱さ、誘惑の強さが、ここにこそあることを誰もが認めざるを得ないのではないかと思います。なのに!です。御言葉は、だからこそ目を覚まし根気よく祈り続けよと命じ、顔を上げさせることをこそ止めない。人は祈れなくても、だからこそ与えられた聖霊様によって、すべてのキリスト者は、祈ることができる力を得るからです。だから10節で最初に言う。最後ですが(笑)、直訳は「主の中で、その強い力の中で、できる力を受けよ!」できるかできんかは、人が決めるのではない。なのに自分で決めようと心を動かす支配に、それは嘘や!と抵抗して立つことができるように、主の約束の中に立つ。立てると、主が言われるからです。16節も「悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる!」その信仰の盾をぶら下げない、直訳は「上に取れ」。火の矢のように飛んでくる、祈れないという思いに、嘘つくな!私は御霊によってうめきながらでも、愛する者の救いのために、友の救いのために祈れると、主の約束を信頼して御霊の中に身を置いて実際に祈る時に、また祈り続ける中で、祈れるって、こういうことかと、徐々に目が覚めるように知っていくからです。

戦い方が身に着くこと自体に忍耐が要ります。ほら、祈ったち何も変わらん、何も起こらんと飛んでくる火の矢に、それも嘘や!忍耐の中で祈れと主は言われる!と、御霊の剣で自らをも策略から解放して祈り続ける。すぐ答えが見えなくても。何十年かかっても。その祈りが求めている答えは永遠なのですから、何十年ぐらいの忍耐は「すべての忍耐と嘆願の中」に既に含まれています。永遠の御子が永遠の苦しみを十字架で耐えられた、愛の忍耐の勝利の中に、祈る私たち自身が背負われて、イエス様、あなたの救いの御力と勝利を信じますと祈るのです。

さらに悪魔の策略が、祈らいじゃち神は愛ながやろ、救われらあえ、忍耐らあせいでも、好きなことして、神は愛と信じちょったらえいやかと、祈れと命じる真理より、合理的で楽な救いの考えで、信仰の盾も剣も捨てさせようと、愛の仮面をつけて近づいてきても、違う!愛は忍耐強いと主は言われると、祈れと命じられる主にお従いして祈るのです。その忍耐の先、十字架の愛の先に、永遠の救いの喜びはあるからです。