ルカによる福音書11章5-13節、イザヤ書62章6-7節「あきらめぬ愛の祈りを」

21/8/8主日朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11章5-13節、イザヤ書62章6-7節

「あきらめぬ愛の祈りを」

このイエス様の最後の言葉を聴いて、いや、聖霊は求めてないので、私が求めているものを与えてほしいと思うことも、あるいはあるのかもしれません。ペトロなど、どうだったんでしょう。イエス様が十字架で死なれることを教えられた時、そんな事はいけませんと、救い主をいさめたほどです。熱心に救いを求めていた弟子たちも含めて、意外と多くの人が、じゃあ私たち、本当は何を求めるべきかを知らないということをこそ、イエス様は知ってもらいたい。そして求めてほしくて、敢えてこのように言われる。え?と思う答えを最後の最後に持ってきて、深く心に印象付けられる。イエス様が譬えを話される時は、え?と思う展開が多いのです。それだけ人が、当然こうだろうと思い、当たり前に求めていることが、神様の求めから、遠く離れているからでしょう。

最後の行の直訳は「まして、どれほどに天の父は、聖霊様を与えて下さるだろう、彼を求める者たちに」。彼を求める者たちにとは、聖霊様を求める者たちに、でしょう。が、これは前の頁の主の祈りの説き明かしですから、これは父の御名があがめられ、御国つまり父の救いのご支配が来ますようにと、父の御心を求め、父ご自身を求める者たちに、父が天から聖霊様をくださる!そういう約束だと言っても良いのです。

つまり、私たちが何を求めていようとも、いやいや、あなたが求めているのは聖霊様でしょうと、まるで蛇を与えるようにしてでも、これが正解だからと上から押し付ける、何というか嫌な親や先生ではない、天の父は。嫌でしょ、そういう、カルピス頼んだのに青汁が出てくる扱い(笑)。それよりは、時間がかかっても納得して自分から求めるように、愛をもって教え導いてほしいと思う。そのためにも聖霊様が与えられるのです。先月の御言葉、エフェソ書1章で「知恵と啓示の御霊を与え、父を人格と人格で向き合って知るように」(17-23節)と祈ったように、人の本当の必要、父の救いを求めるには、聖霊様が必要です。

私たち、時間がかかるのです。今朝の御言葉でも、父に祈り続け、求め続けて途中でやめない、あきらめない祈りを身に着けるのにも時間がかかる。あきらめず自分から求めて、うめきながらでも祈り続けるのに時間がかかる。もし自分たちの子供に、いつになったら…と求めるなら尚のこと、天の父は、あなたにも時間がかかる。でもわたしはそれでも熱心にあなたの心を叩いていると、父こそが私たちに求めておられる。イエス様によって、聖霊様によって、叩き続けて下さっている。求めなさいと励まされるのは、その父の求めに答えてほしいと、私たちを探し求められる憐れみ深い父を、あなたも探し求め、父に出会ってほしい、父の御心に生きてほしいと、主ご自身が求めておられるからです。祈りとは、父の求めに応答する愛ゆえの求めだと言ってよいのです。

そこで私たちはどうするか。父の求めに心開き、聖霊様を求める者にならせて下さいと、求めるか。そうだ、求めなさい。そうすれば、与えられる。必ず与えられると、イエス様は、あきらめないで祈り続ける、父への信頼の求めを励まされるのです。

そうした励ましが必要だから、5節からの譬えがあるとも言えます。その結論8節で「必要なものは何でも与えるであろう」と言われます。あなたがたの必要を父は祈る前からご存じだからと、マタイ福音書では「だから、こう祈りなさい」と主の祈りが教えられました。が、それがルカでは、この譬えで、違う角度から教えられるのです。しつように、しつこいほどに、厚かましいほどに求めなさいと。

これも、え?と思いやすい展開です。そもそもまるで天の父が、面倒をかけないでくれと言っているような、え?という譬え。マタイの描く祈る前から必要はご存じだと言われる父とは、えらい違うように思われます。じゃあ何で違うかと言うと、私たちの祈りが陥りやすい誘惑の、それぞれ違う誘惑を教えるからです。マタイでは、くどくど祈らな神は聞いてくれんと思うのは、そもそも父を知らんからじゃないかと、父を無視して祈る誘惑を教える。それに対し、ルカでは、神様だからいうて自動で祈りが聴かれるということではないと、「くどくど」ではなくて、しつこく!直訳は、恥知らずなほど。父に対し無礼じゃないかと思えるほど、しつこく必要を訴える。だって友の必要ながです!と、友の必要をあきらめない。その愛を、でも祈ったけど与えられんからとあきらめて、友の必要、執り成しをやめる誘惑を教えるのです。

そもそもここでイエス様が祈りを教えておられるのは、弟子たちが、祈りを教えて下さいと求めたからです。初めから、祈れなかった現実があったのではないでしょうか。どうしたら祈れるのか。何をイエス様は教えられたか。父の救いのご支配と、私たちの必要です。赦しが必要だと言われて、え?と思いやすい、自分たちの必要を知らない私たちに、でもだからこそ、あなたがたは、私たちの救いの必要を与えて下さいと祈りなさい。それが祈りだ、父の求めだと教えられて、その救いの必要を、どうしてすぐに与えられないからと、あきらめてよいはずがあろうか。どうして祈れないか。そこでしつこく、恥知らずなほどに祈り求めることを、やめてしまうからじゃないかと、主は、この誘惑から、救い出されて祈る祈りを教えられるのです。恥知らずなほどに、友の必要を求めなさい。自分の必要だけじゃなく、友の必要を、しつこく執り成しなさい。自分の必要なら、きっと言われなくても求めるでしょう。友の必要を求め続け損ねるのです。主が教えて下さった祈りは、我らの罪の赦しの執り成しです。罪なき神の子が、私たち罪人と一つになられて、我らの罪を赦したまえと、十字架で執り成し、今も執り成し続けておられるから、あなたも我らの救いの必要を、友の救いを執り成し続けよ、しつこいほど執り成しなさい、これが祈りだと教えられるのです。

この御言葉の備えの中で私自身、励まされました。先週のエフェソ書で、根気よく祈り続けなさいと命じられる通り、毎日毎日、父よ、この人、この兄弟姉妹を、悪魔の策略から解放し、悪より救い出したまえ。あなたこそが、聖霊様によるキリストの救いのご支配を、この人に来たらせたまえと祈り続けています。一人一人のため、またご家族のために具体的に、救い出したまえ、来たらせたまえと、たまえたまえと何度も何度も父に向かって懇願し続けていると、そういうつもりはなくても、まるで父に私が命令しているように感じ、ごめんなさいと思うのです。でもそれは私が何度も同じことを言われたら、わかっちゅうと言ってしまうのを父に押し付ける、それこそ厚かましい態度から出ているのは、わかっている。けれど、わかっていても、自分は求めを押し付けているのではないかと、主の祈りに違和感を覚えることが時折ある。

でもイエス様ご自身が、そうやって恥知らずなほど求め続けなさいと励まして下さっている。改めて御言葉に聴いて、ホッとしました。遠慮する類の求めなど、私たちは求めているのではないからです。人の永遠がかかった、あきらめてはならない、永遠の必要を求めているのです。すぐ答えられなくても、他人事のように祈りをあきらめそうになったとしても、いや、この人は他人ではない!と我らの赦しを求めるのです。開かれないように思える救いの戸を、しつこく叩き続けるのです。その戸を、父こそが叩き続けておられるからです。その人の救いを求める、しつこい祈りを、父は決してうるさいとは思われず、もっと叩けと求められます。そのために聖霊様を与えて下さり、うめきながらでも祈らせて下さり、ついに戸が開かれるまで祈り続ける。御国は来ます。父は、求める者たちに聖霊様を与えられるからです。