マタイによる福音書6章25-34節、詩編145篇10-16節「主の祈りをギュッ!と」

21/6/13主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章25-34節、詩編145篇10-16節

「主の祈りをギュッ!と」

「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。」直訳は「一番に御国と彼の義を探し求めなさい。」彼のとは、すぐ前で言われた「あなたがたの天の父」のことです。父が義しいと思っておられること。それは世界の救いです。そして「御国」と言ってすぐ思うのは、この一つ前の頁で主が教えて下さった、主の祈りでしょう。御国を来たらせたまえ。実に今朝の御言葉は、その主の祈りをギュッと一つの祈りに凝縮するとこの祈りだという、主の祈りの説き明かしなのです。

更に身近に説き明かすなら、今日発行された『一粒の麦』に竹下姉がご自分の祈りを載せておられます。毎週の祈祷会でも姉妹は同じように祈られます。家族が救われますようにと。私も一人で祈る時は毎日同じように両親と祖母、他の家族の救いを祈ります。教会員のために祈る時も特に子供たち、ご家族の救いを父に祈り求めます。求道の方々、友人たちのためにも、父よ、御国を、あなたの救いのご支配を、この子に、この人に、来たらせて下さい。御霊を注ぎ、覆いを取り除けてイエス様を見させて下さい、御国を来たらせたまえと祈ります。それから救いの次に来る必要を祈ります。癒しや解放、様々な助けを祈り求めますが、先ず、何よりも先ず!何を求めるか。それが祈りを導きます。あるいは自分が本当に探し求めるべき義しさに導くのです。

よく最初のボタンを掛け違うと、ぜんぶ間違うと言います。私しょっちゅうやるので、ホントにそうだと証言できますが(笑)、祈りもそう。むしろ生き方もそうと言ったほうがよいでしょう。先ず何を求めるか。それが生き方を導きます。先頭が後を導いていくのです。心の求めも、頭では、これもあれも必要だ大事だと思っていても、先ず求めるものが後の方向を決めます。志とも言える。心が指す方向に向いて、人は進むのです。どこを向いているか。何を一番に探し求めているか。

何よりも先ず、御国と父の救いの義しさを探し求めなさい。そしたら後の必要は皆、皆!救いのご支配と一緒に、別にじゃなく一緒に、そこまで私たちが、滅びず救われて永遠の幸せに生きてほしいと願われる、父から与えられるからです。イエス様が「信仰の薄い者たちよ」と言われた時、暖かな、超暖かな笑顔でおっしゃったのだと思います。例えば妻から、もうおバカさんねと言われるように。言われませんけど(笑)。だって御子を犠牲にしてまで私たちを求められる父です。どんな深い愛で父があなた方を愛しておられるか。信頼してかまんきと、イエス様が十字架を根拠に言われるのです。こんなにもあなたは愛されていると。

その父のご支配を、父を信頼して、一番に求めるのです。一番大事な独り子を与えるほど、つまり一番に私たちを父が求めておられるから。その義しさを一番に、この人、あの人にも与えて下さいと求める。その一番のもとで、私に必要な父の助けも、その順番で求める。悔い改めるとは、心の求めの順番を改めることだとも言えるのです。先ず父。人々の救い。そしてその中で父が満たして下さる私の必要。主が教えられるように祈る中で、心そのものも変えられて行きます。求めが変えられ、あるいは聖められ、求めるにしても求め方が変わってきたと、祈る中で気づかされるでしょう。自分のためではなく、父の求めを思って、父の求めが私の求めとなって、救いの求めの中で、自分の必要も求めるようになったなと。そしてますます父を求め、御国を、父の恵みのご支配を心から求めるようになる。何故か。その良さを知るからです。手前味噌の譬えで言えば、そこの127段の階段を最初は健康と精神衛生のため、辛くても走らないかんきと走ってましたが、今はそうじゃない。良さを知ったから。楽しいのです。筋肉痛さえ笑ってしまうほど、その良さによって変えられていく自分もまた嬉しい。今日明日では変わらんでも、ひと月ふた月と、父の救いのご支配と義しさを一番に求めて祈る中で、必ず知る。主の御言葉の真実、父の愛と聖霊様のお力を、その幸いを。知った者として証言します。良いです。階段より、ずっと良い(笑)。

父のご支配、御国が私たちの命を満たし、求めを満たし、渇き、必要を満たす、幸いを満たすと言っても良いのです。ただし、それらの命と求め、必要と幸いを満たすというのは、ここが急所です、この世の幸せや命の延長線上に神様を考えて、神様がそれらを満たすから祈るというのではない。つまり延長せず神様抜きでも考えられる満たしは、だから自分で満たせるからと祈らない人は祈らない。あるいは他の宗教や他の何かで満たそうとする。そういう人間から出発する満たしのイメージで御国を求めても、ご利益宗教になるのです。御国を求めたらえいがやおという。だから順番なのです。主の祈りでも、父から出発して、私たちの必要を求める。必要から、人間から、自分から出発する、先ずの順番を、だから悔い改めて、そんな私たちを憐れんで御子を犠牲にされた父の救いの求めから、先ず探し求めるのです。何故、イエス様による救いを父は全ての人に求められるのか。それ以外によっては御国は来んからです。どんなにこの世の必要が満たされても、死んだ後、裁きの座で、あなたはわたしを誰だと言うのかと問われ、何も答えられなかったら、十字架の聖なる三位一体の御子が、あなたはわたしのものだと、もし言って下さらなかったら、誰がその必要を満たすのか。人は、その必要を先ず自分から求めんのです。だから神様から始められたのです。御子によって罪を償うと。そこから始まった、天の聖なる恵みの座からやって来る他はない、十字架と復活の主によって来る他はない父の救いの御国を、だから先ず求める。この恵みのご支配の順番の中で、他の必要も、救いの大いなるご計画の中で満たされるからです。

だから何を求めるにせよ、先ず救いの御国を求める祈りの中で、必要は、全く新しい光の中で、父の求めがなる中で満たされます。イエス様の福音宣教は、この言葉で始まりました「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。あるいは「神の国は始まった」と言ってもよいのです。十字架と復活の主イエス・キリストが来られて、聖霊様が来られて私たちをキリストのものとされ、教会によって福音が証言される。私たちを通して、父があなたを愛しておられる、求めておられる、そのために父がくださった十字架のキリストは生きておられると、主が私たちを遣わされるところに、御国は近づいている。父の求めに、はいと答えて、父を求める私たちの内にも、御国は近づいている。父から求められ、御子が父から遣わされたように主から遣わされている私たちに。それ以外の者では、もはやない者とされ、キリストに結ばれ決して離れないで愛され清められ、聖霊様によって、うめきながらでも祈る者として生きている、その私たちが遣わされて生きるところに、父はご支配を来たらせて下さるのです。同じ御言葉を記したルカ福音書(12:32)ではイエス様がこう言われました「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで御国をくださる」。

ある姉妹が前に証をしてくれました。修学旅行でディズニーランドに行った時、友達とけんかしてしまい、お互いプンプン怒って離れて何のアトラクションも買い物もする気にならず、最悪の修学旅行!と思ってイエス様に祈った。そしたら、ふと、ごめん私が悪かったって言おうと思う気持ちになって、友達を探したら相手も探していて、私も謝ろうと思うたき、ごめんね。そっから最高の修学旅行になったと。帰ってきて、先生、ディズニーランドに神様おった!と証をされました。御子をくださった父は、喜んで御国を来たらせて、神様おったと証言させて下さいます。必要は父が満たされます。だから先ず御国を求めなさい。