ヤコブの手紙4章1-10節、申命記4章29-31節「愛は合理的?祈りは?」

21/5/16復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会

ヤコブの手紙4章1-10節、申命記4章29-31節

「愛は合理的?祈りは?」

祈りは、動機が大切だと御言葉は告げます。祈る動機。何故、それを求めるか。何を満たそうと求めるのか。単刀直入に申しますが、それは自分か。それとも神様の愛の求めが満たされること、隣人への神様の愛が満たされることを求めるのか。何が満たされることを求め祈るのか。あるいは祈っても満たされないからと、祈らなくなるのか。

先週の説教で、祈りと愛は同じです、どちらも自分の満足が目的ではないと申しました。でも自分の求めが、この人に神様の愛の求めが満たされることなら、それが満たされることを忍耐して待っておられる神様と共に、忍耐して、御霊に導かれて祈り続けられるのだと思います。

有名な御言葉に、愛は忍耐強いと言われます。自分には愛がないなと思うのですけど、だからこそ、その私たちに今朝の御言葉はこう求めるのです。神様に近く寄りなさい。神は愛だから、その愛、あなたが求める「もっと豊かな恵み」を、聖霊様が与えてくださるからと。

その「もっと豊かな恵み」を、なのに求め損ねさせる「欲望」の問題も御言葉は指摘します。あまり急所過ぎると、よけやすい(笑)ということもありますので、こう言い換えます。人は、自分の求めが合理的になっている時、祈りがおかしくなると。

合理的という言葉、辞書で調べますと、道理や論理にかない、目的に合って無駄のないさま、とあります。無駄なことしよったら、合理的に考えてやれと言われる。時間の無駄遣いだと。

時は金なりと言いますが、この考え方、経済的合理性とも言います。自分の時間と労力を、これに投資したら、それに見合う効果や利益があると考えて行う。あるいはこれに時間と労力を費やしても無駄だと考えたら行わない。それが経済的合理性です。

さすがに祈るために献げる時間と労力を、経済的合理性という言葉で考えることはないと思います。けれど祈らない誘惑の一つに、祈っても聴かれない、祈らんでも結果は同じという不信感や挫折感があるのではないかとも思うのです。信じて祈った。熱心に祈った。祈りが聴かれんほどの罪を私は犯してないだろうから祈りは聴かれるはずだと、祈ったのに、あるいは何回も、何十回も祈ったのに、あるいは単純に、祈っても答えがなかったからという理由で、もしかすると、まだ祈ってもないけど、祈っても聴かれんからと思う誘惑、ないでしょうか。特に欲望がすぐ楽に満たされることを、当然のように求める今の日本では、祈りを経済的合理性に巻き込もうとする悪魔の誘惑は、相当強い。だから悪魔に反抗して、世ではなくて、神様に近く寄りなさいと言われます。

祈らない。あるいは祈っても与えられない。その不信感や挫折の背後に、自分の求めを満たしたいという欲望がないか。3節2行目で「自分の楽しみのために使おう」と「使おう」と訳された言葉は、自分の欲望を満たすために費やし、消費できるんじゃないかという言葉です。嫌な言い方ですが祈りさえ、使えると思ったら時間も労力も費やすけれど、使えないと思ったら、やめる合理的態度。でも天の父は、私たちの祈りの根もとを見ておられます。あなたは、何故それを求めるのか。どんな土台の上に立って、それを祈り求めるのかと。何故、生きるのか。自分は誰として生きるのか。自分を満たす者としてか。生きる態度の根本、土台が、もし歪んでいたら、その上にどんな家を建てても歪み倒れる、いや、あなたが倒れてしまうからと、父は、それを与えられない。

人の土台は何か。神様との愛の関係が満たされることか。それとも、神様以外との関係で自分を満たすことか。そこが救いの急所なのです。

それを4節で「世の友となる」と訳しましたが、直訳は「世を愛する」です。「神に背いた者たち」と訳された元の言葉は更に強烈で「姦淫する者たち」。それは「神の敵になること」だと言う。妥協点0(笑)。でも、そうでしょう。もし私が妻以外の女性を愛するなら、妻に敵対すること以外の何でもない。もし私が、いやそうは思ってない、妻のほうを愛していると心から思っていても。独り善がりという言葉がこれ以上に合うシチュエーションはないでしょう。愛とは、相手と関係だからです。

何で神様は姦淫とまで言われるのか。何で神様は、ここまで私たちとの愛の関係の問題を強烈に言われるのか。その何故か!を畳みかけるような愛の宣言として「愛しておられる」からと答え説得するのが、続く5節6節なのです。

ただ、5節3行目の「」の中は翻訳の難しい所で新共同訳では「霊を」と訳しましたが、これは文法上「御霊」とも採れる。私はそのほうが全体の意味が通ると思うので、それで訳し直すとこうなります。「神様が私たちの内に住まわせた御霊は、(私たちを)ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」。

ここでも急所は何故、神様は主を信じる者たちの内に御霊を住まわせられるかなのです。それは父の御心を知る三位一体の聖霊様が、私たちを神の子として造り変え育てるための、お世話役として、神の愛の教師として、私たちの内で近く近く働きかけられるのが聖霊様だからです。再び夫婦関係で譬えるなら、私が妻に敵対する愛を抱く時、何しゆう!あなたは誰のものか、二人は一人になったろ、何様のつもりか、あなたは妻のものだと、愛の破れに嫉妬される。それと同じように聖霊様は、私たちの内側から、あなたはキリストのものであって、他の誰でもないろう、そのためにキリストが何をして下さったか忘れてはないだろう、わたしは決して忘れない。三位一体の永遠の御子は、あなたのためなら死んでもかまんと、わたしはそれを無駄だとは思わんと、代わりに死んでくださった、あなたの救い主だ!わたしはその御子のためにも、その御子が命をかけて愛するあなたのためにも、わたしはあなたを聖めると愛の誠実を全うされて「もっと豊かな恵みをくださる」。そしてそのために聖霊様がなさる御業が、私たちが神様の愛の求めを自分の求めとする「謙遜な者」になるために導かれるという、愛の御業なのです。

その愛は、経済的合理性から見たら、ただ損なだけです。全く合理的ではない。無駄にさえ思えるのじゃないか。だって、私を見て下さいよ神様、何も変わってないじゃないですか、こんな罪人で、自分自分で、祈れない、愛せない、何も満足にできない、できたと思ったら高慢になる私をと思う。その私たちに主は、もし、そうでも、それでも尚、この愛によってでしか、あなたは変わらないし、この愛による以外の何かであなたを変えようとは思わない。わたしは神であって、人間ではない。わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを愛している神だと、人間が無駄だと思う神様の愛によって、神様は私たちに向き合われ、わたしのもとに近づきなさいと、ただ恵みによって招かれるのです。

この神様だから、祈るのです。この神様の愛に身を委ね、父よ、その御心を、この人にも、私にも行なって下さい、私たちを変えて下さい、私たちを憐れんで下さいと、世のために祈るのです。自分の欲望で世を愛するのではなく、この世が変わるために、神様の子供とされて生まれ変わって、永遠の父の家族として生きられるように、そのためになら、私も自分の欲望はもうえいですと、キリストのものとして祈るのです。その心を与えて下さる聖霊様によって祈るのです。聖霊様が信じさせて下さる、十字架のキリストの名によって祈るのです。すぐに結果が出なくても、祈っても損するんじゃないと思って尚、無駄にはならんから。祈りが楽しくなくてもいい。やがて、その損と無駄と苦労と涙が報われる日が来る、父が報いて下さるから、その日を楽しみに祈るのです。