マタイによる福音書6章5-8節、出エジプト記33章7-11節「神様と愛の対話をする」

21/5/9復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章5-8節、出エジプト記33章7-11節

「神様と愛の対話をする」

奥まった部屋で祈る。教会の伝統的な言葉で言えば、密室で祈る。父に向き合って、対面しての対話を、父としなさいと主は言われます。

そうだなと思うのです。こう考えるとよいでしょう。皆さんも誰かと本当の対話をしたい時、人がおらんところで話すと思います。一対一の心と心の対話をしたい時は。その対話を、父は求めておられる。

もし、心と心の対話をするのでなくて、お決まりの願いを伝えるだけなら、二人だけにならんでよい。相手も、もうわかってます。いつものあれやおと。行きつけの床屋さんに行って、いつものあれで、と言うのと同じで、情報を伝えるのが目的なら、もうわかっちゅう。いつものねと、向こうから言う時だってあるでしょう。

でも父は、絶対おっしゃらない。もし父が、父でなく、単に神なら、言うかもです。けれど私たちの救いのために御子をくださった私たちの天の父は、いつものねとは言われない。対話を求めておられるから。

父と訳された、もとのギリシャ語はパテールですが、イエス様が弟子たちと会話した言葉は、アラム語という地方言語です。そしてイエス様が実際ご自分でも祈り、また「こう祈りなさい」と教えて下さった時に言われた「父」という言葉は、そのアラム語で「アバ」という言葉です。これは幼子が、例えばパパと呼ぶ言葉です。で、おそらくパパと呼んでいた子供は、大きくなってもパパと呼ぶことがあって、それはイエス様の時代に、父をアバと呼ぶ時もそうだったようです。そりゃ人前では、お父さんと呼ぶかもしれません。が!二人で対話する時は、たぶんパパと呼ぶ。父親自身、パパはね、と自分を呼ぶと思います。ただそれは、二人っきりの関係に集中するから。それが、祈りなのです。

祈りは情報を伝える行為ではない。一切ない。それは父はご存じだからです。無論、人前で祈る時は、先の牧会祈祷もそうですが、聴く人が何を祈りゆうか分からんとアーメンと言えんので情報を伝えますけど、天の父と対話をする時には、情報はいりません。

祈りに慣れてなくて、どうしてもそうなることはあるでしょう。でもそれを父が嫌がって、んなこた知っちゅうと言われることはない。父とどう対話してよいかわからん我が子が一生懸命に言葉を探し心を注ごうとしているけど、うまくいかんのを、どんなに父は深い愛で受けとめて下さって、ほんでほんでと見つめておられるか。幼子の言葉にならない言葉を親が一生懸命聴くように、私たちのうめくような祈りを、どんな気持ちで父は聴いて下さっているか。アバには、我が子の心は伝わっています。だから情報ではなく、心を届けるのです。単なる神にではなく、父に向き合って。父に祈りたい、父に聴いてもらいたいことがある。心の内の渇き、切なる求め、あるいは苦しみを伝えたい、聴いてほしい。変えてほしい。父よと。その全てを、父は私たちが思う以上の大きな心と愛で受けとめられ、更に私たちが父に近づいて、祈りにおいても成長するように、促し、育て、導いて下さっている。祈りは聴かれている。安心して、父を信頼してよいのです。父よと呼んで。

イエス様は「あなたの父」「あなたの父」と繰り返されます。あなたの父だと知ってほしい、そう呼んでほしいからです。

私はよく神父さんと呼ばれます。きっと牧師という言葉は知っていても、たぶん区別がつかんのでしょう。また私がどちらで呼ばれたいと思っているかも、気にならんがやろうなと思いますが、訂正はしません。ただ、今後お世話になる関係の時は、ずっと間違い続けてたと知ったら嫌だろうなと思って、プロテスタントは牧師なんですと笑顔で言いますが、それでも、もし、神父と呼び続けるなら、まあ仕方ないけど、私に対する敬意はないのかなとも思う。単なる仕事相手ながかなと。

父は、でも父なのです。それ以上であられても、子供が父の仕事場を見に行って度肝を抜かれるような聖なる全能の神様であられても、父は父として私たちに向かい合われます。そして仕事場の譬えで言うなら、父は、ご自分がどんなにすごい父であられるかを我が子に知ってもらいたい父であられるし、その我が子が一層の信頼と愛をもって、父よと、近づいてきて、一対一の対話をしてもらいたいと願われるのです。

もしかすると先ほどから対話という言葉を聴いて、皆さんの内には、こう思われる方もおられるかもしれません。その対話が難しいと。実にアーメン、その通りで、そしてその感覚は大切だと思うのです。

言い換えれば、父と対話する祈りは、あ、対話できたと思ったらそれ以降ずっとできるということではない。つまり、祈りに成長することはあっても、満足することはないのだと思います。

愛することと同じです。ああ十分愛した、今後ずっとこの愛の関係がうまく続くということがあるのでしょうか。もしあるなら、相手が相当苦労しゆうんじゃないでしょうか(笑)。自分は十分愛したという思いが自己満足であるように、祈りに満足するということは、およそないのだと思います。ただし!と急いで付け加えますが、祈りの中で満たされることはあるのです。でもそれは立派に満足する祈りができたからではなくて、自分の祈りの貧しさを知りながらも、その祈りを聴いて下さり、また父に届けて下さり、むしろその祈りを私たちの内側からうめきつつ祈って下さっている聖霊様に祈りが満たされることがある。祈りが豊かだろうと貧しかろうと関係なくなって、インマヌエル!神様がここにおられると、理屈を超えた聖なる神様の御臨在に圧倒されて、三位一体の神様との愛の関係によって満たされる恵みは確かにあります。

祈ることと愛することは同じです。どちらも自分がどうのではない。自分の満足が目的ではない。自分の愛の貧しさ、祈りの貧しさを知りながらも、その相手との間に愛を求められる父の願いが満たされるなら、そこに愛の祈りを父が聴かれるなら、祈りは満たされているのです。

だから対話をあきらめない。自分を意識してしまっても。自分の祈りが言わばマニュアルのように感じても。あるいは神様が、自分の祈りをマニュアルのように感じているのではないかと思ってもです。父は心を見られるからです。祈れなくて、祈りたくて、祈りの言葉を覚えようと言わば教科書で学ぶような、マニュアルのような祈りになる。当たり前です。くどくどなるかもしれない。主が注意された祈りになってないかと意識をするかもしれません。でもこう言えばわかりよいでしょうか。人前で祈り慣れてない兄弟姉妹が、急にお祈りして下さいと当てられて緊張して、同じことを繰返し祈ることはある。その人のことを知らない人は、しかも私の兄弟姉妹だと知らない人は、何をくどくど同じ祈りをと思うかもしれません。だけど知っている人は、緊張して混乱しちゅうと、祈っているその人のためにと、祈っているんじゃないでしょうか。ありますよ、祈っている人のために、祈りを助けて下さいと祈ること。

父は、そのつたない祈りを心振るわせながら聴いておられます。目をウルウルさせながら聴いておられるんじゃないでしょうか。だって祈れない我が子が、一生懸命、祈ろうとしている。父は聴いて下さいます。わかっておられるのです。あなたは、わたしの愛する子だと。弱いことも、罪深いことも、全部ご存じで、御子をさえ惜しまず与えて下さった父は、私たちには、父の助けが必要であり、その必要を知る父が必要だということを!だから助けて下さいます。だから御子は私たちに、こう祈りなさいと教えられたのです。天にまします我らの父よと。この方がわたしたちを永遠に愛される父だからです。