ヨハネによる福音書21章20-25節、詩編147篇10-11節「人と比べなくてもよい」

21/4/25復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

ヨハネによる福音書21章20-25節、詩編147篇10-11節

「人と比べなくてもよい」

つい、人のことが気になってしまう。イエス様のことでなく、神様のことでなく、この人は、あの人は…と、心がへちを向き、イエス様から目が離れ、心が、関心が、生き方がクルッと後ろを向いては、おかしな方向に迷いだす。人を見て迷う、迷える羊。

その羊たちを「わたしの羊」と愛を込めて呼んでくださるイエス様が言われるのです。「あなたは、わたしについてきなさい」。

何で、人のことが気になるのでしょう。でも、純粋にその人のことを気にして、心配しているのでは、どうもない。むしろ自分のことを気にしてしまい、人と比べてしまうのかもしれません。学生時代、テスト前に遊びゆう友人を見て、安心してました。俺だけじゃないと(笑)。心配だからでしょう。自分のことが。あるいは心配で勉強しゆう人を見て、安心して勉強する人もおるかもしれません。あの人らあもそうやきと。安心したい。人間の根源的欲求です。そらそうです。安心したい。問題は、嘘でない根拠ある安心を得るためには、誰を見たらよいかです。

ペトロは先週の御言葉で、自分がどのような死に方で神様の栄光を現わすことになるかイエス様から約束されました。つまり、前にイエス様を捨てて逃げて殉教できなくて情けなくて泣いたペトロが、でもヨハネ15章でイエス様が、友のために命を捨てる以上に大きな愛はないと言われた、その大きな愛で、あなたはわたしを愛することになると主は約束をしてくださった。ペトロはどんなに嬉しかったかと思うのです。

でも、やはり不安になったのでしょう。現実は甘くない。思い知ったばかりなのです。自分は大丈夫という考えがいかに嘘で非現実的かを。主が言われた殉教の現実に、改めて怖いと思ったのかもしれません。

「この人はどうなるのでしょうか」。この人も同じだったら、自分だけじゃないと思えたら…人と比べて不安を取り除こうとする、迷える羊の古い迷い道の方向に、つい私たちは振り向いて、人を見てしまう。

そんな私たち、人を見て、不安を取り除き安心したいと求める迷える羊の心を、主は真っ直ぐに見抜かれて、唯一確かな安心の根拠を答えられます。他の人がどうだろうと、それがどうしてあなたの安心の根拠になるのか。安心の根拠は、その人にあるのか。ないだろう。わたしの羊よ、あなたは、わたしに従いなさい、と。

ペトロに、そして迷えるご自身の愛する羊たちに語られたこのお言葉に、私は神様の本気を感じます。主がどれだけ私たちとの愛の関係を、強く大切に思っておられるか、その関係の強さを思うからです。

キリスト者作家の三浦綾子さんがこんなエピソードを書いておられました。うろ覚えで詳細に自信がありませんが、三浦さんご夫婦が喫茶店に入られた時、夫の視界に入ってくる人を、夫がその度チラチラ見る。他の人を見ないで私だけ見てと言うと、ごめんごめんと笑って、また窓を見る。また見てると怒ったら、違うよ、植木鉢を見ていたんだと言われた。私は植木鉢にさえ嫉妬する人間だというようなことを書いておられて、笑いながらも、うらやましく思ったことがあります。

私たちの神様はご自身のことを、わたしは妬む神だ、と言われます。新共同訳では熱情の神と訳されますが、正確に言えば、妬みは他の人が持つ自分のものではない何かを見て、それは私のものであるはずなのにと、隣人の家を欲する歪みです。神様は、むしろ嫉妬なさる。つまり、あなたはわたしのものなのに、どうして他の人を求めるのかと怒る感情で、神様は私たちを求められる。わたしはあなたの神だ、あなたはわたしの民だろうと、汚れない愛の関係に固執される、聖なる関係の神様。それが自らを愛と呼ばれ、熱情と呼ばれる神様だからです。

その神様であるイエス様が、ご自身の命を捨てて罪と死から買い戻され、贖われ、救い出されて、ご自身と一つの関係の中に救い入れられた愛する私たち一人一人に言われるのです。あなたはわたしを見なさい。わたしがあなたを見る時は、あなたしか見てない。人と比べて見るのではない。人と比べて愛するのではない。人と比べて赦すのでもない。人と比べて、あなたへの愛が弱くなることも強くなることも決してない。常に100%完全な変わらない愛で、わたしはあなたを愛している。そのわたしをあなたは見て、わたしのものとして、ついて来なさい。見よ、わたしはいつもあなたと共にいると主は言われます。

だから私たちは、あの人は、この人はと自分を安心させるため見なくてよいし、逆に見て不安になることからも、自由になってよいのです。そのために、私たちを愛する自由以外の一切の自由を、十字架で捧げてしまわれた、決して変わらないキリストの愛だけを見つめて、信頼をしてよいのです。自分は本当にダメだと思う時も、全くそれ以上に本当に変わらぬ愛で愛されるキリストが、わたしは主、あなたの神、あなたを見捨てない神だから、あなたは、わたしについてきなさいと言ってくださる。この確かさに身を委ね、心安んじてよいのです。