ルカによる福音書11章1-4節、詩編27篇7-8節「主よ祈りを教えたまえ」

21/5/2復活節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11章1-4節、詩編27篇7-8節

「主よ祈りを教えたまえ」

祈る時、どう祈ればよいのか。弟子たちは教わりたかったようです。私たちもそうじゃないでしょうか。私自身そうです。特に昨年から教会の様々な集会を制限せざるを得なくなり、教会としての活動のほとんどが集会であったことを思い知らされました。この北側に座って、大津の町を見ながら祈っていました。でも祈ることは幾つもあるはずなのに、息切れして続かんのです。泳ぎ方を知らん人のように。祈りの本を読んでいると、こんな言葉がありました。私は自分の祈り、また多くの人の祈りの内容が、神様に状況を説明しゆう内容だと発見した。例えば昨日感染者が何人出たとか、清和は県下唯一のミッションスクールですと。いや神様知っちゅうき(笑)という祈り、確かにそうやと笑いました。でもそれを抜いたら、まるで近所の人と話す話題が無くなってしまうような、お願いだけだと5分で終わるような祈りの実態が、弟子たちにもあったのかもしれません。だから、主よ、祈りを教えてくださいと。

今朝から、しばらくシリーズで、祈ることを御言葉から聴いていきます。そして一緒に、神様が求められる祈りに成長したいのです。そう、成長です。主が教えて下さった祈りの最初に学ばないかんことが、父よと呼びかけることでした。神よじゃない。何度も申しますが、父は子がおらんと父にはなれません。そして父は子の成長を願うのです。私たちは、その父に対して色々と願うのですが、父は、子が何かをすることを願うより先に、我が子の健やかな成長を願う。その成長の健やかさが、祈りの成長に具体化するのです。言い換えれば、父との愛の関係に成長する。父をもっと知って、もっと愛するようになり、もっと信頼して、もっと父の求めに生きたいと願うようになる。父に何かを求めるのではなくて、父が求めとなる。父が子を求めるように。それが祈りの御言葉を聴くにあたり、最初に与えられた詩編27篇でした。改めて旧約858頁をお開きください。上の段7節8節「主よ、呼び求める私の声を聞き、憐れんで、私に答えて下さい。心よ、主はお前に言われる。『わたしの顔を尋ね求めよ』と。主よ、私は御顔を尋ね求めます。」

先に読んだ祈りの本はこう言っています。尋ね求めるのは御顔であって御手ではない。多くの祈りが、神様は自分の求めを与えてくれるかと言わば手に心が集中して、父の御顔を求めない。手だけ見るなと。

そうだなと思います。少し前、新聞を読んでいると妻が色々尋ねるので、検索しいや、ネットで調べやと4-5回連続して顔も見ずに言うと、検索したら出てくるがはわかっちゅう。話をしたいがと怒った。これが父のお気持ちだと思いました。御名をあがめさせたまえと本気で祈っているのに、それが具体的に何を意味するか、すぐ抜けやすい。父が私にとって父であることが、その関係が、父が願われるように満たされますようにと言っても良いのです。これは宗教の話じゃない。願いが叶うかどうかの話でもない。祈りは、父との愛の関係の話だとイエス様は教えられるのです。こう言ってもよい。愛の的を外すと、祈りは的外れな、場違いな言葉になってしまうと。何故なら、私たちが何かを願う前に、父が私たちの救いを願われ、私たちを子とされることを求められ、そのための犠牲として、三位一体の御子をさえ惜しまないほど、父が私たちを永遠の愛で求めて下さっている。常に変わらず!それが祈りの土台、また祈りのゴール、祈りの的だからです。

祈りは、私たちから始まるのではない。父の求めから始まるのです。そして父が私たちを求められるとは、具体的には私たちの祈りを、心の求めを聴きたいのです。こう言ったほうがわかりよいかもしれません。皆さんは愛する人から、どんな言葉を聴きたいでしょう?どんな言葉を聴きたくないでしょう?その気持ちを、そのまま父の前に持って行って、この私を滅びと罪から救うために三位一体の御子を犠牲にされた父が、私から聴きたいと思う言葉を、父のお気持ちを愛ゆえに考えて、言葉にすればよいのです。もし、わからんなら、わかりません、教えて下さい、あなたを愛することを、私を愛されるあなたの気持ちを、どうしたら、あなたとの関係が良くなるか、宗教にならんですむか、父よ、あなたを知りたいです、もっと親しい関係になりたいです、あなたを愛することを教えて下さいと祈ればよい。それが祈りになります。

その祈りと態度、愛と求めが身につくには、時間もかかります。人間関係と同じで、関係は成長するものだからです。父はイラレで待てない癇癪(かんしゃく)持ちではありませんから、その愛を信じて、本気で祈ればよい。父よ、あなたを無視したくないです。成長したいですと。求めなさい。そうすれば与えられる。主の約束です。何より、父が求められるのです。私たち、我が子との愛の関係の成長を。

その成長が、私たちの執り成しの祈りも成長させます。家族、友人、隣人の救いと必要な助けを、日々執り成して祈るのも、その愛が父から出ているから。だから、父よと御顔を求め、父の御心を担えるのです。