ヨハネによる福音書21章1-14節、創世記3章7-10節「本当は謝りたかった」

21/4/11復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ヨハネによる福音書21章1-14節、創世記3章7-10節

「本当は謝りたかった」

若い頃にこの御言葉を読んで、私はずっと不思議に思っていました。何でペトロは「上着をまとって湖に飛び込んだ」のか。ビシャビシャになるやん、泳ぎにくくなるしと。どうしてペトロが、わざわざ上着を身に着けたのか。わからんので、そのまま読み飛ばしていました。

他のところは、何となくわかったのです。最初イエス様抜きで、自分たちだけで漁をした時には、一晩中苦労したろうけど、ぼうずで。でもイエス様の言われた通りにしたら、引き揚げれんばあの大漁の魚が網に入った。これ、特にペトロ、そしてゼベダイの子たち、つまりヨハネとヤコブが、イエス様に出会ったばっかりの、まだ弟子になってなかった時、同じように収獲0やったのが、イエス様の言われた通りにしたら、網が破れそうなばあ魚がとれて、イエス様がおっしゃった。あなたは人をとる漁師になる、わたしについて来なさいと。それで今朝の御言葉でヨハネは、ハッと気がついて、あの岸から声をかけてくださった方は、主だ!と言った。人間が努力しても思い通りにならんけど、主が、こうしなさいとおっしゃることに従えばよい、そこに教会への収穫の約束もある。人間の努力とか人間の思いじゃなくて、十字架と復活の主の思いが大切だ。それがなるのだと。そういうのはわかったのです。今スルッと説き明かしましたけど、ここにどれほどの主の慰めがあるかと改めて思うほどです。

けれど、そこで、何でペトロが、そうだ!主が私たちのところに来て下さって、ここにおられる!と、今!ここで!主に会って、それで何で上着を着て、湖に飛び込んだのか。まあ、主だ!いうて飛び込むあたりは、まあペトロやきと。あんまり考えんで、すっと思うたことをする人やきと。何というか、愛すべき単純なペトロの姿に一種の癒しを感じもするのです。遠くから呑気に主よ~言うて手を振ったりはしない(笑)。おそばにいたい。陸から90メートルばあやき泳いだが早いと思うたら、もう飛び込んじゅう。ドッパ~ンと水しぶきを浴びた他の弟子たちも、まあペトロやきと笑いながら、そして主が来て下さった喜びに、急いで舟を漕いだと思います。

でも、やっぱり、どうして主だ!と聴いて、上着を着たかなのです。御言葉を記したヨハネには、書き飛ばせなかった理由があったのです。些細なことですよ、上着を着たかどうかなど。単に飛び込んだでかまんじゃないですか。でもだからこそ、ヨハネは理由を記すのです。直訳は「何故なら彼は裸だったので」。確かに言わばふんどしは着けちょったでしょうけど、でも「裸だった」。これはむしろペトロが、自分は主の御前で裸だという意識を言い表した大事な理由なのです。

言い換えれば、自分のために死んで下さった神様の前に、恥ずかしいと思う意識。右の頁で先週の夕拝の御言葉でしたが、トマスがイエス様に「私の主、私の神よ」と信仰を告白する御言葉がある。その時ペトロもおって、アーメンと心の中で一緒に告白したに違いないのです。この方は私の主、私の神様だと。その神様が!人となられて私を救うために死なれた神様が今ここにおられる!と、主を仰ぎ見たペトロが、スッと上着を着る。こう言えばわかりよいでしょうか。礼拝で御言葉を聴いていて、それまで言わば御言葉を学ぶ姿勢で聴いておったとして、でもその御言葉に、他ならぬ私自身の罪の問題を主が私に語られ、指摘しておられて、その罪を、わたしが背負ったと、今ここにおられる主から、語りかけられていると思ったら、姿勢も顔つきも変わります。主だ、主が私に語りかけておられると。その時には、単に相手が神様だからという漠然とした、言わば態度が悪いとバチが当たるかもといった恐れではなく、自分の具体的な罪を意識するのです。あの罪、このことを、人は知らなくても、とても言えなくても、主は見ておられたと。漠然とした罪を主は裁かれんからです。この罪の汚れが解決されないかんと思う、その罪をきっかけに、人は主の前に自分が裸だと知る。私は恥ずかしい罪人だという主への畏れを自覚するのだと思うのです。

私にとってそれは…と、もし言い出したら、聴きたくないと身構えてしまう罪。まさか人には言えない恥ずかしい自分の真実を、持ってない人がおるのでしょうか。その自分を、でも主の前で、我が主、我が神と信じて告白する十字架と復活の主の御前で、恥ずかしいと意識する人は幸いです。その裸を覆われる復活の主は、その人の主だからです。

次週の御言葉15節以下の展開から分かるのは、ここでペトロが意識する具体的な罪意識は、彼がイエス様の前で、あんな人は知らんと三回イエス様を否定した罪。しかも私は絶対にそんなことはしないと自分を信じて、自分は!と言い張ったのに、主を捨てた恥だということです。しかもルカによるとペトロはこれを主の目の前で行い、主は振り向いてペトロを見つめられた。バレたどころじゃない。何の言い訳もできず、外に出て泣くことしかできなかったペトロのこの罪、そしてこの罪からペトロが知ることになった裸の自分の罪深さを、解決するために、主はこの21章でペトロに向き合うために来られた。しかも徹底的にこれを、ペトロとの愛の問題として解決するために。これが21章の急所ですが、ペトロ自身、これを何とかせないかんと、きっと思うておったのです。

主の前で自分の裸を意識して上着を着た時に、ペトロは、主から早う来なさいと呼ばれたわけではありません。皆と一緒に来ても良かった。というか、引き揚げれんばあの大漁の魚を他の人に任せ、自分だけ先に行くのは、そもそも、俺は漁に行くと言い出した者として無責任です。なのに一人で上着を着て飛び込んだのは、きっと皆がおらんところで、イエス様だけに言いたかったのです。きちんとイエス様に向き合って、主よ、私の主よ、なのに、あなたを何度も裏切って、私に言ってくれた御言葉も信じないで、自分を信じて、汚い私で、主よ、ごめんなさいと謝りたかったのだと思います。ずっと謝りたかったのだと思うのです。ペトロも、この罪を何とかせないかんという意識はあったに違いないのです。私たち自身いつもどこかにその思いがあるように。でも中々その機会をよう見つけられんのです。うまくいかんのです。そもそも黙っておったら、誰からも言われん、責められることのない、ただ自分の良心の呵責に痛みを覚える、でも神様の赦しを信じてないわけじゃないし、信じているし、でも…と引きずっている罪の汚れ。あの時に言っておけばとペトロは思ったでしょうか。イースターの夕方、主が「あなたがたに平安があるように」と来て下さった時。でもよう言わんかった。その次の週、今朝の御言葉でペトロと一緒に漁をしゆうトマスが、でもその時は一人だけ復活の主に会ってなくて、俺は信じんと言い張った。そのトマスに、信じない者ではなく、信じる者になりなさいと、主がトマスを愛して来られた時も。言い出せんかった。他の人もおったし、トマスのことで一杯やったしと、理由は思い浮かんでも、でもやっぱり言わないかん理由が消えんのです。他の人は関係ない、主と私との間に私の主が求められる、正直で嘘のない愛の関係を、汚し、二人を遠ざけて距離を作る罪は、私の主の前でハッキリ告白をして、解決せないかん。そのままにしちょったら、やっぱりいかんと。なのに言い出せず、他の弟子たちが来て…。だから、イエス様から言い出して下さったのです。

罪に汚され、せないかんと思いながらできない愛の修復は、初めから主の求めの内に、そして恵みによる助けの内にあるからです。その主の愛に飛び込めばよい。自分で自分の裸を覆うのではない。主が覆って下さる。私たちを完全な赦しと愛で覆われる主が、私たちの、生きておられる主だからです。