ヨハネによる福音書21章15-19節、申命記6章1-5節「愛はいつでも神様から」

21/4/18復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ヨハネによる福音書21章15-19節、申命記6章1-5節

「愛はいつでも神様から」

そうしてペトロは主にお従いし、主の羊たちの牧者となって、これが私たちの神様だと皆に伝えました。十字架の愛と赦し、復活の希望を。自分自身、弱い羊の一人としてです。

迷える小羊とよく言います。羊は弱くて、本当すぐ迷う。聖書は人を弱い羊に譬えます。迷える羊たち。何より、愛に迷いやすい。ペトロもそうでした。自分には愛があると、イエス様のためなら死ぬこともできると思っていた。自分は羊でも強い羊だと思っていた。他の羊たちとは違うんだと。でも違っていた。主が十字架に架かられる前の晩、お前もイエスの弟子だろうと言われたとき、違う、あんな人は知らん、俺とは関係ないと、しかもイエス様の目の前で、三回、イエス様を否定した。思い知ったのです。自分は弱い。口だけの、愛のない罪人だと。

そのペトロに三回「わたしを愛しているか」と、イエス様が言われたのは、無論、責めるためではありません。また単に立ち直らせるためでもありません。もし、今度こそはと自分の古い愛に立ち直るなら、再び愛に迷う堂々巡りでしょう。だから自分の愛に立つのでなく、そんな、愛に迷う羊たちが神様の愛に立つことができるようにです。そしてこの弱い羊代表のペトロを通して、主は私たちにも語っておられるのです。あなたもこの愛に立ちなさいと。それが今朝の御言葉です。

「わたしを愛しているか」とイエス様が言われた愛するという言葉、ギリシャ語でアガパオ、神様由来の無条件の愛を意味する、アガペという言葉の動詞です。それに対してペトロが「愛している」と答えた言葉は、フィロという言わば人間同士の好きという言葉。あるいは愛するであっても条件付きで、可愛いからとか、言うことを聞いてくれるから、愛している。でもその条件が満たされなくなると愛さなくなる。神様が私たちに条件を付けないで愛されるアガペとは違う愛だと、敢えて強調される言い方です。でもそこがやっぱり愛の急所だと、聖書は私たちに問うのです。あなたはどの愛に立つのか、どの愛に立ちたいかと。

その愛の違いを踏まえて、じゃあペトロはこの時、どのような愛の迷いの中におったのか。自分で頑張って愛する自分の愛、人間の愛に立とうとしておったのか。それともそんな私たちを「わたしの小羊たち」「わたしの羊たち」と、神様は全く無条件の愛を込めて、わたしの!と呼んで下さる。その神様から与えられる愛の関係!に身を置くから「はい、主よ」と、主の愛に立てるのではないのか。でもそこでいつも立ち損ね、愛に迷っては自分に立とうとしてしまう。この愛の迷い、あるいは信仰の迷い、誰を信じるのか、自分か、神様か。神は愛ですと信じるとは、どんな神様を信じるのか。そこが本当に急所なのです。

もとのニュアンスでイエス様とペトロの対話を訳し直すと、こうなります。「シモン、わたしを愛しているか、この人たち以上に」「はい、主よ、あなたはご存じです、私があなたを…好きなことは」。よう言わんのです。愛しています、と。二回目も「シモン、わたしを愛しているか」「はい、主よ、あなたはご存じです、私があなたを…好きなことは」。やっぱりよう言わん。そこで三度目にイエス様は「シモン、ではあなたはわたしを好きなのか」と言われた。神様由来の愛ではない、人間の愛、自分の愛でわたしを愛していると言うのかと。それでペトロは心に痛みを覚えた。きっと、本当にそうだと思ったのです。私は口ばっかりで、ひとっちゃあ愛がないと。自分の愛のなさに痛みを覚えて、自分を思い知って「主よ、何もかも!あなたはご存じです。あなたはよくご存じなのです。私はあなたを好きなのだということを」本当は愛したいのに、愛していると思っていたのに。愛せんかったのです。逃げたのです。私は自分を愛して、あなたを大切にできんかったのです。主よ、あなたは何もかもご存じです!

主が十字架に架かられる前の晩、ペトロは言った。他の弟子たちが、あなたを捨てて逃げても、私は絶対逃げません。一緒に死ぬ覚悟です。でも逃げてしまった。イエス様の目の前で、あんな人は知らない、私は関係ない、関係ないと、三回イエス様との関係を否定して、知らないと言って、逃げた。そのペトロを、主は見つめておられた。そしてこの時も、深い愛で、どんな罪も恥ずかしさも何もかも受けとめる深い愛で、ペトロを見つめておられたと思います。そのペトロの弱さも罪も、あるいはペトロが未だ知っていない心の汚さや卑怯ささえもご存じで、それでもペトロに、だからこそペトロに「愛します」と言って欲しかったと思うのです。愛は自分が愛せる愛せないの自信の問題ではないからです。自分がどうのではない。愛はいつでも関係の問題だからです。

しかも常に神様から始まって神様に支えられ、神様に求められ神様に受け入れられる愛の関係の中で、愛せなくても、あるいは純粋じゃなくてエゴが入って下心が混じって、自分に見返りを求めるような自分自分が混じっておっても、それでもその羊のような愛の弱い私たちを神様は純粋に完全に愛され、愛し抜かれて、命を捨てられて、わたしはあなたと愛の関係の中で一緒に生きたい、あなたを愛している、わたしは主、あなたの神だと、その愛を宣言してくださる。それが神様のくださる愛の関係、すなわち主イエス・キリストと結ばれる救いなのです。神様を信じる、キリストを信じるとは、その神様がくださった愛の関係は絶対大丈夫だと信頼することです。愛しているかと、主が愛を求められるのは、この愛の関係からあなたを捨てることはないから、だからあなたは神様由来のこの愛の関係の中で、愛することができると、主が確信されているからです。だってご存じですよ、どんなに愛のない、罪ある人間か、弱い羊かは。その私たちの罪を、だから全部背負って十字架で命を捨てて、償って下さった、何もかも背負い切って下さった神様が、え?あなた愛がないのとは言われない。ご存じです。すべてご存じの上で、その上であなたに求める。愛を求める。この愛の関係の中で、あなたに一緒に生きてもらいたい。あなたと生きたい。わたしの子よ、あなたはわたしを愛するかと、その名を愛と呼ばれる神様が言われるのです。

神は愛です。私たちの罪も弱さもわかっておられます。その上で愛されるのです。

その愛を信頼して、その愛の関係の中に「はい、主よ」と身を置いて、「わたしに従いなさい」と招かれる主の羊として歩めばよい。その私が主を愛しているかいないか、また主の羊たちを愛しているかいないかは、主がご存じです。自分で自分を裁くことも、また他の主の羊たちを、愛がないと裁くこともしなくてよい。私たちは狼ではなくて、主の羊ですから。むしろ自分が羊であるからこそわかる、愛に迷いやすい悲しみを忘れずに、その悲しみも弱さも、一緒にイエス様の前に持っていって、一緒にイエス様の愛に養ってもらえばよい。それが教会だからです。

神様がこの人を無条件に愛しておられる。わたしの羊だからと、ただそれだけで神様が本当に死ぬほど愛しておられる。それだけで、その人を愛する条件は十分です。無論それで必ず愛せるわけではありません。弱い羊です。自分は愛せないと、ペトロのようにどうしても自分の愛に立とうとすることもあるでしょう。だから「わたしについて来なさい」と招き続けてやめられない救いの主が、愛の全責任を引き受けられて、導き続けてくださいます。この神様由来の、常にある愛の関係の中で、「はい、主よ」と、お従いすればよいのです。