ペトロの手紙一5章10-11節、詩編118篇22-29節「神様は恵みによって!」

21/3/21受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一5章10-11節、詩編118篇22-29節

「神様は恵みによって!」

先に祈りました主の祈りでも、力は永遠にあなたのものだからですと、御子をくださった天の父に祈りました。御心がなる力は、どこから来るか。自分からか。それで失敗したペトロが祈る「力が永遠に神様にありますように」。説得力があります。神様が恵みによって力をくださるからと、神様に信頼して歩む時、苦しみが小さくさえなると励ますのです。

10節で「しばらくの間苦しんだ」と訳された言葉は「オリゴ」小さいとか少ないという言葉ですが、私たち、人の苦しみは、そんなことでと小さく見えても、自分が苦しんでいる時は、そんなに小さくはないのです。いつまで続くのかと、むしろ他のことが小さく思えるほど、大きく思うんじゃないでしょうか。視野も狭くなって、苦しみばかり見える。ある人はそれを古い潜水服の中に閉じ込められているようだと表現しました。重たく小さな丸い窓の潜水服。苦しい時は確かに全体が見えず、少ししか見えんのに、そこで自分の苦しみばかり見ているという体験、ないでしょうか。潜水服の中から見ている苦しみに囚われ、実際以上にそれを大きく見て、そればかりに心が集中して、弱り果ててしまう。

その苦しみの潜水服から、外に連れ出す力を、ペトロは自己責任にはしません。もっと頑張れとか我慢がないきよとも言いません。苦しくて尚、揺るぎなく信仰に生きる力は、その人にはないからです。神様に、しかも「あらゆる恵みの神様」に、力は、永遠にあるからです

キリストが、そこから来られ、そこへと私たちを救い入れてくださる恵みの永遠から、力は来る。そこに潜水服からの脱出も起こります。

ペトロは「永遠の栄光へ」と言います。栄光とは、すごい!と褒める称賛のことです。あるいは、その栄光の将来を見て、いいなあと憧れるとも言えるでしょう。うらやむのは自分の欲望から出ますが、憧れは、将来への希望から生まれる力です。あるいは約束から生まれる力。

苦しみがなくなることだけが、いいなあと思える弱さは、きっと誰にでもあると思います。イエス様さえ、十字架の前夜、ゲツセマネの園で、この苦しみの杯を取り除けて下さいと祈られました。祈ったらいかんのじゃない。祈らざるを得ないほどの苦しみと弱さを、神様は憐れまれるからです。人に、苦しいと言ったら、嫌な顔をされるかもしれません。でも天の父は憐れんで下さるからと信頼して、永遠の父に顔を向ける。私も苦しい時、よく実際に顔を天に向けて祈ります。手も上げる。栄光を見させて下さいと仰ぐのです。その栄光に、私たちは入るからです。キリストによって保障されているのです。でも私たちだけが入るのではない。神様は、その私たちを用いられ、あの人この人も入れるようにと招かれる大きな恵みの神様だからです。私が恵まれることを思うだけの小さな恵み、むしろご利益は「あらゆる恵みの神様」とは無関係です。私たちの苦しみを小さくさえおできになる神様の恵みの力は、人を永遠の栄光に向けさせられるのです。神様はこの苦しみをさえ人々の救いのためにお用いになられると、この私の苦しみを通して誰かが永遠の栄光に入るなら、私はそれをいいなあと憧れますと、イエス様も仰がれた、救いの栄光を仰ぐのです。永遠を仰ぐのです。その永遠の栄光が、人を潜水服の外に連れ出します。いのちの視野が、永遠の視野へと広がる。いや、永遠の思いが心に入ってきて、永遠の栄光が心に居を構えたら、大きく見えていた苦しみが、なくなるわけではなくっても、耐えられるサイズに見えるようになる。

その恵みをペトロも体験してきたのだと思います。その力をペトロは約束するのです。そして苦しみの潜水服に閉じ込められやすい私たちの思いを、永遠という外に連れ出す。随分な外です。外国に行くぐらいを思われるとわかりよいでしょうか。以前、教区議長に選ばれた先生が、いや~ストレスでまいってね、でも妻が、え?と驚く一泊旅行に連れてってくれるんですよ。それが力になってねと、嬉しそうな笑顔で言っていました。たぶん一泊の韓国旅行とかじゃないかと思うんですが、外国が持っちゅう力って、確かにあるなと思います。

永遠の御国を思うのも同じです。永遠か、いいなあと、永遠の栄光を思う。御国のガイド本で「るるぶ御国」とかあればいいんですが(笑)、確かにああいう本を見ていると、心の向きが変わる。それが聖書であり、それを証しする信仰書も、確かに心の向きを変えます。教会図書もあるので改めて信仰の読書をお勧めします。違ってくるからです。苦しみが少しずつ小さくなっていくのを、体験すると思います。

無論、永遠を思えばよいというのでなく、神様ご自身が私たちの心を変える力を与えられるのですが、その神様はどんな神様だと信じるか。そこが一番の急所です。「あらゆる恵みの神様」。すべての恵みの神様。あらゆる状況で、すべての人にとって、どんな時も、神様を思ったら、恵み!と必ず出てくるぐらい「あらゆる恵みの神様」に、信頼をする。苦しみと恵みの神様と、どっちが大きいと思うかとも言えます。苦しみが大きく見える弱っている時ほど、それが問われます。そして力になるのです。御子を与えられた父よ、あなたの十字架の恵みのほうが大きいですと、恵みの力を得て歩めるからです。

改めて、恵みとは、それを受ける側には何の条件も求められないで、ただ神様の信じられないほどの大きな愛の故に与えられる、神様からの慈しみ、ご好意、祝福です。何かをして勝ち取るのでも、こんなことをしたから無理だというのでもない。恵む理由が神様にのみあって、あなたに救われてほしい、永遠の幸せに生きてほしいと祝福される神様が、あらゆる恵みをもって、私たちが救われて生き、また人々の救いのために生きられるように、力を与えて下さる。恵みを下さる。

この「あらゆる恵みの神様」を仰ぐとき、あらゆることの中に、恵みを見つけられるようになる。礼拝の時も、あるいは疲れて礼拝で寝て、落ち込む時も、自分がどうのじゃないのだと、私の神様は恵みの神様だと、むしろ弱さの中でこそ、神様が恵みの神様であることを、あらゆる恵みの神様であることを、その栄光を知るのじゃないでしょうか。自分でやっていると思う時には、自分の栄光になるのです。できてない人を裁くのです。あるいはそうやって裁いていた私が、自分の罪を知らされ恥ずかしくなって、でもその中で恵みを知って、このペトロのように、間違った力や強さに踊らされている人であっても、きっと恵みの神様は変えて下さると、恵みに頼って、祈って向き合えるのです。あるいは、この人はキリストを信じないだろうと裁くこともあるかもしれません。それも同じです。自分で信じたのではないのです。自分で見つけたのではないのです。迷っていた私たちを、神様が先に見つけて下さったから信じることもできたのです。人がどうのじゃない。自分がどうのじゃない。神様が、あらゆる恵みの神様だから、驚くばかりの恵みの神様で、滅んで当然の罪人を背負われて、わたしが身代わりになるきと苦しんで死なれた、どうしようもなく恵みの神様だから、あらゆる恵みの神様を信じたら、揺らぐことがなくなっていくのです。

「揺らぐことがないようにしてくださる」とは、建物を建てる一番先に基礎を打ち立てて、その上に揺るがない生活を建て上げていくという言葉です。恵みがその基礎です。全く私に根拠を持たない恵みを一切の根拠として、そこに根を張り、拠り所として、キリストが私たちの生活の土台、救いの岩ですと、一切の責任を負われる恵みの主を信じるから苦しくても立ち続けられるのです。一切にキリストの恵みを見て、恵みに頼って歩めばよい。力はそこにあります。恵みの神様にあるのです。