ペトロの手紙一4章12-16節、詩編27篇「苦をも分かち合う」

21/2/7主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一4章12-16節、詩編27篇

「苦をも分かち合う」

キリスト者の名で呼ばれる。この後でも行きますトラクト配布の時、もしお庭にどなたかいらっしゃったら、私は「近くの教会の者ですけど良かったらお読み下さい」と言います。キリストの者です(笑)と言ったら怪しまれそうなので言いませんが、キリスト者とはキリストの者、あるいはキリストの僕、キリストに所有されている者という意味です。それ故に軽蔑の言葉でもあったようです。お前、自分のものじゃなくてキリストのものかと現代では言われるのでしょうか。

でもそのことで、キリストの者であることの故に神様をあがめなさいと言うのです。それが13節で言われる「キリストの栄光が現れる時」に全てのキリスト者に起こることだからです。上段7節で「万物の終わりが迫っています」と言われた流れで言われる言葉です。でもその日は、神様が御子によって与えられた救いの完成の時でもある。この救いに、ペトロは私たちの目を向けさせたいのです。更に具体的に言えば、その終わりの時、あるいは最後の審判の時に、生きている者と死んだ者とを裁かれるキリストご自身から、救いの宣言を受ける人の顔を想像できるでしょうか。裁きの座で、キリスト者こそ自分の真実の罪の姿を知るのではないか。甘かった、私は醜いこれらの罪を裁かれて滅ぶべき者だとまさに我に返る。その聖なる裁きの席で、なのにその裁きを身代わりに受けられたキリストの十字架の憐れみと正義の故に赦しと救いの宣言を受けるのです。あなたの罪は赦された。その者たちが涙と喜びに溢れる姿は想像できるのではないかと思います。いや実際は想像を全く超えるキリストの栄光が現れてそのキリストの者とされた全ての者が、主の十字架の栄光に覆い包まれ、キリスト者の名で呼ばれることで、神様をあがめる。天を揺るがすような大いなる賛美が沸き起こる。

そのためにキリストが受けられた、人々を救う愛の苦しみにあずかる幸いを、ペトロは改めて分かち合うのです。既に右頁上の14節で、またその前の頁上の段21節でも語られた、十字架の救いの義、人々を救う愛の正義のための苦しみと言ってもよいでしょう。ワクチンの譬えで言うとわかりよいかもしれません。ウイルスを滅ぼす抗体を得るため誰かが感染して犠牲にならなければ、というのが譬えの急所、キリストの犠牲です。永遠の御子の犠牲によって、先に言いました罪の裁きを受けて尚その裁きに打ち勝つ赦しの救いを得るためです。そのキリストの苦しみの結果できたワクチンを、暴れる我が子に打つ譬えを想像して下さい。暴れる子供を看護師が押さえて、抵抗が強ければ親も一緒に押さえて、やめてやめてやめて、お父さん嫌い嫌いと非難され泣かれて、どんなに説明しても憎まれる。非難を受けて、苦しみを受けながらも、それでもどうしてこのワクチンをあきらめないか。どんなに苦しくても、この子が助かることを自分のことより強く望むから、ただ信じるからでなく、この子を愛しているから。だからそのために自分が受ける苦しみなら、辛くても耐えられる。耐えられなくても、それでもこの子が助かるためならと、キリストが苦しみを受けられたことを、私たちは知っているから、そしてその苦しみの故に罪人は助かることを、自分のこととして、しかも自分の存在をかけられる愛の事実として知っているから、だからそのための苦しみなら、私もこの人のためにと思うのでしょう。

14節「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら幸いです。栄光の霊、即ち神の霊が、あなたがたの上に留まって下さるからです。」

キリストの栄光が現れる時、その時、キリストご自身から、あなたはわたしのために、この子が救われるためのわたしの苦しみの仲間となってくれた、よくやったと十字架の主から言ってもらえる。それが栄光でなくて何でしょう。でも多分、よくやったと言われて、頑張りましたと言える人は、もしいたとしても、それほど多くないのではと思います。多くの人は、いえイエス様、まさか私が受けたような苦しみは、あなたの前では苦しみではないですと全く本当に思いながらも、それでもその苦しみの記憶は、そこで全て報われ涙で覆われる。その私たちの上に、あるいはすぐそばで、私たちが誰かのために苦しみ得たその苦しみを、キリストの苦しみにあずからせ担わせて下さった聖霊様が、良かったねと喜んで下さる。それが私たちの三位一体の神様なのです。

その神様の栄光に、救いの栄光に、私たちを与らせたい。この喜びを共に喜び、そのための涙も苦しみも分かち合い、互いに、良かったね、良かったねと、祝福し合う。この神様が神様で本当に良かったと神様をあがめ、ほめたたえ、この神様が私たちを救って下さるからと、苦しみを受けても、それでも愛する。その愛の試み、テストを通った愛に直接触れて、ああこの人たちが信じちゅう神様は本当に愛ながやと、口だけでない神様を共に信じて救われる人々を、神様が求めておられる。その私たちに「愛する人たち」と呼びかけているのは、ペトロだけではありません。神様が、私たちに呼びかけておられるのです。