ペトロの手紙一4章10-11節、箴言3章21-35節「恵みのカリスマが行く」

21/1/31主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一4章10-11節、箴言3章21-35節

「恵みのカリスマが行く」

賜物。神様から賜ったものすべてのことです。例えば永遠のいのちが聖書では賜物と呼ばれます(ローマ6:23)。自分で何かして勝ち取った手柄ではないもの、むしろ全くの恵みとして、私たちを愛される神様の愛だけを理由に賜わった、さまざまな力を、賜物と言います。

教会学校の礼拝で、献金感謝の祈りを皆でこう祈ります。「私たちのものは全部あなたからいただいたものです。あなたを愛し、あなたを賛美するしるしとして、この献金をお捧げします。」アーメンと思うのです。

私は神様の前に、かくありたいと願うイメージとして、恵みバカというモットーを勝手に作っているのですが、まあ野球バカと同じで、単純で愛すべき一つ覚えという感じでしょうか。あれもこれも恵み恵みと神様の恵みを見て恵みを数えて生きる生き方。

今朝の御言葉は7節で「万物の、一切の終わりが迫っている」だから、こういう具体的な生き方をしなさいと命じられた励ましの続きです。私たち個人個人の終わりを考えたほうが分かりよいでしょうか。私たちは死んだ後、人の記憶に残ります。残りたくなくても残る。その時どんな人だったねと記憶に残りたいか。兄弟姉妹たちの記憶に、子供たちの記憶に、私は恵みバカやったねと記憶に残りたい。ただバカじゃなく(笑)、恵みバカやったね、いっつも神様の恵みを感謝しよったねと。

その恵みを、私たちはそれぞれ一人一人が授かっているのですからと御言葉は約束するのです。

その恵みの形は「さまざま」です。でも、そのすべてが恵みだから、私にある、これもあれも恵みだと、恵みバカになって、それを生かして「互いに仕えなさい」。先週の8節で「愛し合いなさい」直訳は「あなたがたの間で熱心な愛を持て」と励まされた同じ言葉が繰り返されます。あなたがたの間で、相手に仕え、愛の奉仕をしなさい。

「それは」と、下の段に続きます「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです」。それが恵みの力と目的です。そこに十字架の神様が現れるためです。自分はもうえいきと相手に仕える。それがキリストだから。それが三位一体の神様の栄光だから。三位一体の誰も自分が自分がと言わない。父が子に、従うがが当然やろうと言うこともない。子が父に、何で言う通りにせないかんがと言うこともない。また子が聖霊を、まるで人格のない道具や力や能力のように、自分の力としてモノ扱いすることもない。

人となられた三位一体の御子イエス・キリストを通して、神様が栄光を受けられるとは、そのイエス様が私たちにして下さったように生きることです。主は、弟子たちが互いに愛し合い、仕え合い、互いに重荷を負い合うようにと、神様の栄光を現わすために自らにも与えられていた三位一体の聖霊様を、キリストを信じて一つに結ばれた一人一人にも、与えてくださいました。それは教会が、主の愛で互いに愛し合い、仕え合って生きるところで、キリストの御業がなされるためです。その愛を必要としているこの世の只中で、神様が、教会を通して、救いの御業をなされるために、私たちはそれぞれ賜物を授かっている

その賜物を、だから誰も自己実現の道具としては用いんのです。自分のためでも、自分を誇るためでもない。神様の栄光と力を泥棒することはなりません。

また賜物は、人々の救いのための神様の全体的なご計画の中で用いる恵みですから、主から授かった賜物を用いないのも、泥棒と言うと強すぎるかもしれませんが、それは文字通り宝の持ち腐れになってしまいます。ないですか、冷蔵庫の奥に。うわ、言うて触りたくなくてそのまま容器に入っているやばいやつ(笑)。寝かしても熟成しないやつ(笑)。あれは、もう捨てるしかないですけど、しかも覚悟を決めて、息を止めて(笑)。でもイエス様が、あなたにはこれをと、特別な配慮に基づいて選ばれたあなたへの賜物は、腐りません。むしろ恵みの賜物は、祈りという聖霊様の風を吸って、息を止めないで祈りを止めないで、信頼して用いてよい恵みの力ですから、覚悟を決めて下さい。主よ、用います、用いられたいのです、用いて下さいと。

では各人どんな恵みを授かっているのか。さまざまです。さまざま。11節で、御言葉と奉仕の二つだけ言われるのは、そこに全部が含まれるからでしょう。例えば献金も、祈りも、口が動くのも、体が動くのも、愛によって主に献げられる一切が恵みです。「さまざまな恵みの善い管理者として」あるいは「美しい管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。自分に固執せず、相手に仕える美しさ。私たちがイエス様に見る美しさを、私たちに与えられた恵みは、もう持っているのです。

「管理者」とは、主人から家のことを任された執事のことです。教会が、神の家本来の美しさを保つために、各人が自分に与えられた恵みを献げてお仕えする。それが人の目には、たとえちっぽけで、神殿に銅貨二枚を捧げるように見えても、そのちっぽけに見える献身をイエス様は美しいと言って下さいます(マルコ12章)。わたしの恵みを、あなたは美しく管理してくれた、その美しさを保ってくれたと。

だから11節では、授かった賜物に「ふさわしく」「神様がお与えになった力に応じて」と言われます。その恵みの出所を問うのです。自分から出たのではない、神様から出た力の相応しさに応じて献げる。例えばイエス様が忠実な管理人の譬えをなさった時「多く与えられた者は多く求められる」と言われた(ルカ12章)。忘れられない言葉です。与えられた力に応じる美しさ。授かった力を、自分のためと見ない美しさは、神様から出て、イエス様を通して、世界を照らす恵みの美しさです。

ですから私たちは、牧師が神の言葉を語っても、牧師を褒めないし、信徒が奉仕をしても、それがその人の才能から出たとは見ない。むしろ教会でなされる全ての営みに、私たちはその一人一人に、神様が恵みを賜り、その一人一人を用いて神様がなさっている御業と、その美しさを見るのです。美しくなくても、けなしません(笑)。それこそ美しくない人間の業です。そこでこそ恵みに生きる。恵みバカになって、十字架の美しさを担わせて頂ける光栄にあずかって、人に愚かだと思われても、そこでキリストの御業として用いられ、人々が救われていくゴールだけ一途に見るのです。主が十字架で見られたゴールを見続けるのです。

もし互いの奉仕を見るなら、この人は、この神様のゴールがなされるために、自らを神様の御業のために献げているキリストの忠実な僕だと見ればよい。そして私も主の忠実な僕として一緒に仕えたいと励ましを受け、互いに励まし合えばよいのです。何か言いたいけど、何と言えばよいのか分からなければ、ありがとうと笑顔で言えば良い。その笑顔の内に、主ご自身の思いが伝わることも、きっとあるのだと思います。

主のために、救いのために捧げるということは、人から見たら、あるいは自分から見ても、失うことが多いかもしれません。失いたい人などおらんと思います。時も宝も、自分のために用いることもできたのに、それでも失おうと思えるなら、それはそこで献げる献身を、神様が誰かを恵まれるために祝福して下さると信じるからです。失うのではない。得るのだと。天には大きな喜びがあり、報いがある。そのために主は、私たちを恵まれ、人々が救われるための賜物を授けてくださっている。この恵みの中に私たちは、もう生かされている。キリストの恵みの世界の中を、もう歩み始めています。だからそのゴールを目指す。主と共に救いを喜び合う恵みのゴールが、私たちを待っているからです。