ペトロの手紙一4章7-9節、箴言10章12節「愛と祈りへと目覚めよう」

21/1/24教会設立記念礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一4章7-9節、箴言10章12節

「愛と祈りへと目覚めよう」

終わりが迫っている。それがコロナ禍の終わりや、嫌なこと辛いことの終わりなら、すごく良いんですが、それを含む「一切の終わりが迫っている」。一切の終わりが。労苦も、悲しみも、終わりを迎える。でも、終わることで引き起こされる悲しみ、しかも取り返しのつかない悲しみや痛みもある。終わって楽になるのではなくて、終わるから、終わってしまうから、だからまだ終わってない内に、まだ今日という日がある内に、まだ体が動く内に、イエス様の名によって祈れる内に、しなければならないことがある。

だから」と言われるのです。だから、そこで私たちが行うことは、もはや自分のための何かではないでしょう。あの人のため、この人々の救いのために、今できること、今から積み重ねていけることを、だからなさせて下さい、助けて下さいと、私たち祈るのじゃないでしょうか。

そのために、一切が終わる前に、神様は世が裁きから救われるために御子を与えられました。救いを備えて下さいました。その救いがなるため、その御心を知った私たちは、ではどう具体的に生きればよいのか。それが今朝の御言葉と来週の11節までの御言葉です。教会設立記念にぴったりの御言葉だと思います。一気に説き明かせたら更に良かったかもしれませんが、それだと、ざっくりになるので、二つに分けました。

ざっくりできない。特に愛することを説くことは。そうじゃないでしょうか。かけ声だけの愛に心が込められることは、およそないのだと思います。料理と似ています。時間をかければ良いわけじゃないですが、でも逆に言えば、もし面倒だなと思っても、美味しい料理を食べて喜ぶ顔を想像したら、しょうがないかとニヤニヤしながら面倒な下ごしらえをするのじゃないでしょうか。

「不平を言わずにもてなし合いなさい」と命じられます。愛することが何であるかは、もう知っているのに、なのについ面倒臭さが先に立って不平が出る。あるいは、こちらがこの愛の業のためどんなに苦労しているか、まるでわかってないような態度や言葉に不平を言いたくなる。愛を求めながら、その愛が貧しい現実がある。だからこそキリストの名によって祈り、罪を覆って頂かないと、愛することのままならない教会の現実を、ペトロはよく知っておったのだと思います。またそれは自分の体験から知る貧しさの知識であればこそ、確信をもって裏付けられた生々しい愛の励ましであったとも思うのです。

「身を慎んで、よく祈りなさい」。ゲツセマネの園で祈られた主の姿を知るペトロの言葉だと思わされます。主は祈っておられた。でも自分は祈り損ねて、そして自分はイエス様を知らないと否んでしまった。その惨めさを知る者として、だからこそ祈り備えなさいと願うペトロの思いは、よくわかるのではないでしょうか。「身を慎んで」とは「酒に酔ってないで」、思考が麻痺させられ、まるで酔っぱらいのように、私は大丈夫大丈夫と、思考停止しないでという言葉です。祈って神様に助けてもらわなければ、大丈夫ではない現実がある。麻痺をして大丈夫と思うから祈らない、罪深い自分の現実がある。

けれども、その罪の現実に向き合うからこそ知る、神様の愛の現実があるのです。「愛は多くの罪を覆う」。イエス様を否定さえした自分が、その罪を覆って頂いた。この愛がなかったら、本当に私は神様のために生きられない罪人なのに、この愛があるから、この愛に覆われるから、神様の愛に従おうと励まされる、この愛の現実が、罪の現実に勝つのです。私の罪を神様が覆ってくださった。私を責めるのでなく、追い込むのでなく、むしろその責任を負って下さって、数えきれないほどの多くの罪を十字架で覆っていただいているから、だから私たちは感謝して、この愛に生きて行きたいと励まされる。

だからペトロも言うのです。「何よりも先ず、心を込めて愛し合いなさい」。何よりも先ず「すべてに先んじて」。つまり、優先順位の話です。何をするにしても、何故そうするのか。愛ゆえか。それを先ずキリストの前で求めなさい。愛をくださいと。愛ゆえに、これをなさせてくださいと。そこから、常にキリストから、教会の愛は始まるからです。

それなしに、7節で言われる「思慮深くふるまう」ことはできないでしょう。思慮深く、ふるまいの理由を煮込むように考える。そうでないと、前からやっていること、皆がやっていることをしてしまう。例えば衣食住の必要があって何かを買う時、何故それを選ぶか。何か頼まれた時、それを受けるか断るか、何を理由に選ぶか。人間関係でのふるまいも、その人にかける言葉一つ選ぶにも、人は、そこで何かを優先して、これをと選びます。その時に、どこに立って、何を根拠に生きる者として、それを選ぶのか。その時に私は、キリストの愛に生きる者として、どうするべきか。その間わずか0,5秒でも、主の前で選ぶのです。あるいは時間をかけて煮込むようにして、祈りの中で、御言葉に照らして、これにしますと選ぶ。煮込みの途中で煮詰まったら、お尋ねください。そのために主は教会に牧師を備えられました。御心がなるために、教会の賜物を用いて下さい。それはそこで御心を尋ね求める教会員自身が、その教会の賜物として用いられるためだからです。それが私たち、この高知東教会を、主が設立された目的だからです

最後に、この思慮深い、心と思いとを尽くしての愛は、直訳で言うと「あなたがたの間で、熱心な愛を持つこと」だと言われます。個人個人がでなく「あなたがたの間で」。独り善がりの愛に酔い、あるいは熱心であることに麻痺させられて、自分は大丈夫だと惑わされやすい誘惑を、ペトロも痛いほど知っておったのだと思います。

在米中、教会のリーダーシップ研修会で聴いた話が忘れられません。私たちで言えば教団議長にあたる人が、まだ自分が駆け出しの伝道者であった頃の話をされた。当時、世界を股にかける著名な伝道者のもとで訓練を受けていた彼は、その伝道者宅で食卓に招かれ、ご夫人が隣りに座った。そして「私の夫、世界的伝道者でキリストの愛を説き、優れた聖書の教師として教えている。でもその教えを、家では実践しないの」と冷やかすような笑顔で夫の肩をなでながら言った。それを聴きながら自分はどうしたら良いかわからずに、お皿のグリーンピースを取るふりをしていた。後に、夫妻がやがて破綻することになった報告を、でも it’s all right、大丈夫だと事務処理報告でもするように伝道者が言った。その時、行き場のない、やるせない思いで、it’s not right、先生それは大丈夫じゃないと言わざるを得なかった、教会が教える神様の愛は、そういうものじゃないんだと、議長が教会のリーダー研修会で泣きながら言っておられたのを、私は震えながら聴きました。痛切に自分のこととして聴きました。私が25歳の頃、四半世紀前のことです。

キリストのために苦しむことや、人々の救いのために仕えることが、独り善がりにならないために、自己実現の手段にならないために、熱心であろうと熱心でなかろうと、個人が個人のための宗教をすることがないために、あなたがたの間で熱心な愛を持つことを、第一に優先しなさい。そこにキリストの十字架が現れるからです。神様がどうして死なれたかが、理屈を超えて伝わるからです。あなたが大事だから。世の価値とか自分とか欲望とか、そんなんが優先じゃなくて、あなたが大事だからと、罪を裁くより、あなたを愛することを優先する。それが神様だからです。その神様の教会を、キリストの愛による救いを、だから私たちは一番にして、一つの神の家族として、共に御心に生きるのです。