イザヤ書11章1-5節、ルカによる福音書7章36-50節「すべて終ったと思っていた」

20/12/6待降節第二主日礼拝説教@高知東教会

イザヤ書11章1-5節、ルカによる福音書7章36-50節

「すべて終ったと思っていた」

エッサイの株、あるいはエッサイの切り株と言ったほうがイメージしやすいのではないかとも思います。切り株。切られたのです。切られる前は、その上に木があったのに、それが切り倒された。ドサッと大きな音がして、倒れて、その木は二度と元に戻らない。預言者イザヤが語るそれは、神様の裁きです。エッサイを父として生まれたダビデを最初の王とし、王家のファミリーツリーを連綿と育ててきたユダ王国を、神様は切り倒されました。国家は崩壊し、民は離散し、神殿はなくなった。それまで預言者たちによって、もし、罪深い生活を悔い改めないなら、あなたがたは自分で神様の裁きを招いていると告げられてきた、その日が来た時、王も民も皆、知りました。御言葉は、本当だったと。そしてこうも思ったのではないか。わかっていたのに、と。

私たちもまた、そうした切り株を持っているかもしれません。例えば歯の治療をしながら、祈ったことないでしょうか。神様ごめんなさい、今日から必ず歯を磨きます(笑)。私、何度もあります。その度、キーというドリルの音に切り倒されながら。あるいはその前の晩に、痛みで眠れない夜を過ごしながら、ごめんなさいと繰返す。泣きながらですよ。原因があって、結果がある。それも一つの裁きです。そしてもっと泣きながら悔やんだ切り株、でも何を悔やんだかは、人にはよう言えん切り株もある。そのほうが多いと思います。深い痛みと喪失の悲しみを覚えながら思う切り株を、そうやって自分の心の中に持つ人は、少なくないと思います。二度と元に戻らない、自分の中で、死を迎えた切り株が、荒れ野のような心に墓標のように立っている。ただ後悔するだけでなく自分の罪と裁きを悔やむ悲しみがある。そりゃ、もしやり直せることであるなら、やり直したらよいのです。だけど、やり直せないこと、二度と取り戻せない喪失がある。それについては、もう自分には、何もすることができない。どうにもならなくて、考えないように意識が働きさえする、人間には、もう手が届かなくて、終わってしまった、死んでしまったその切り株から、しかし神様は、まったく新しい芽を萌えいでさせることが、おできになる!すべての人間の喪失と絶望、切り倒されて戻らない裁きと死と陰府の一切合切を、だからこそ御子が受けられ、その罪人の裁きと断絶から、まったく新しい人間のいのちと希望、まったく新しい人間の救いを、わたしが、わたしの人間としての裁きの死と復活の体の中で、まったく新しくあなたがたに与えると、罪深い人間の死を終わらせられる救い主として来て下さった。神様の裁きと怒りをご自身で受けられる神様として、罪ゆえに切り倒されたエッサイの切り株の死と絶望とのすべてを取り込んで、すべての人間を担い、包み込み、抱き上げて、だからあなたは、古い人間の罪と死の常識で考えて絶望するのは、もう、やめてよい。人間の終わりを告げる切り株から、見よ、わたしは新しい希望を生じさせる。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった!と、主は言ってくださる。それがクリスマスのまったく新しい朝の光によって罪の世を救われる、主イエス・キリストの誕生であるからです。

この方が裁いてくださり救ってくださる。人間の目に見えるところ、耳にすることだけで、偏り、誤って裁くような、しかも裁く自分は正しいと偏るような裁きは、決してなさらずに!裁きながらも愛に満ちて、弁護してくださる十字架の主として、暖かな光の主として、愛の正義によるご支配、神の御国を、私たちの只中でもう始めておられる!それがイザヤの預言したキリストの救いとご支配であることを、私は先に一緒に読みましたルカによる福音書の物語が、もっとも雄弁に証していると思って、少し長いですけど、選び読みました。

この人がどんな罪の深さを抱えておったのか、御言葉は語りません。目で見るところによって、勘繰ることはできます。耳にしたことを確かめないまま、眉をしかめもできます。でもイエス様はなさらんのです。人はするのに。罪人はいつもそうやって裁くのに。自分でも同じように裁いたんじゃないでしょうか。これをした私は罪深い、もう取り返しがつかない、すべて終った、自分で切り倒してしまった、私はもう切り株だと。自分の心を殺す裁きをして、人の目にも自分の目にも、目で見るところだけのうわべの生活を、心を殺しながら送っておったのなら、その彼女が耳にしたイエス様が語る言葉は、殺したはずの心に光を与えたのです。その新しい言葉は、人をうわべで裁くどころか、彼女の心深くに葬っていた、本当は新しくやり直したいという思いを希望に変えて、そうだ、人間にはできないが、神様にはおできになる!と信仰を与えたのです。あなたはその神様の赦しを信じて、まったく新しくやり直してよい。まったく新しく!それがキリストによって近づいた神の国だからです。人間の目には終ったようでも、神様はまったく新しく始め直してくださる。このキリストの福音を、感謝して信じてよいのです。