ペトロの手紙一3章1-6節、創世記18章9-15節「主の秩序に従う奥義」

20/10/4主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一3章1-6節、創世記18章9-15節

「主の秩序に従う奥義」

主なる神様を畏れ敬うことと、それ以外のものに心騒がせ恐れることは、まったく別のことです。イメージにするとわかりよいでしょうか。2節で「神を畏れる」と別の漢字で言い表されているのは、神様の前に頭を下げ、自分の身を低くする態度です。あるいは神様に従うが故に、自分がそのもとに置かれている権威の前に身を低くすること。

それと違う恐れるというのは、頭を下げないで単に恐れて、逃げたいと、自分のことで一杯になっている心の状態を言うのでしょう。そこで意識されている、心が向いている先が違うとも言えます。畏れ敬う畏れは、心が相手に向く。他の恐れは自分の心配で一杯。だからクリスマスの天使たちは、恐れることはありませんと、心を神様に向ける御言葉を伝えました。愛と救いの神様を畏れ敬い、信じて安心しなさいと。

今朝の御言葉も、同じように、心を十字架の神様のもとに向けさせる呼びかけです。今の状況での、心配や恐れ、あるいはそうした恐れから心を逃避させて世界をキラキラと見えさせる様々な装飾や装いからも、あなたの目を上げなさいと。それらが一番の問題ではないのだと。不安もキラキラも、この世の朽ちるものだから。むしろ、あなたは朽ちないもの、朽ちない世界に、共に生きるために、そのために神様がご自分を捨てて与えて下さった、朽ちない救いに目を上げなさい。あなたも、そしてあなたの家族も救って下さる神様に向けて目を上げなさい。神様が求め、また求める者には喜んで与えて下さる、朽ちない生活の在り方に目を向けなさいと呼びかけるのです。

因みに今日の説教、夫は余り首を縦に振らん方が身のためです(笑)。

4節の「柔和でしとやかな気立てという朽ちないもの」を直訳すると柔和で落ち着いた霊という朽ちないもの。和装の令嬢の姿より、むしろイエス様がこう招いて下さった姿です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」マタイ11:29。人が押し付ける「しとやかさ」など問題ではありません。他人ではない方、その御前に頭を下げてイエス様と呼びかけるお方、十字架で私が朽ちない愛と命に生きられるようにと命を投げ出して下さった主が、わたしに倣って、あなたも柔和で謙遜な霊の人として、あなたの夫に仕えなさい。わたしがそのように彼にしたように、あなたもあなたの愛の十字架を負って、わたしに従いなさい、朽ちない世界に、ついて来なさいと招かれるのです。

その夫が「御言葉を信じない」直訳すると、御言葉の説得を拒む夫であっても。十字架のイエス様のように、ののしられても、ののしり返さず、むしろ夫を赦して下さい、自分が何をしているのか知らないのですと、口に出したくなっても出さないで、本気でこの十字架の祈りを祈るのです。知らないのです、憐れんでくださいと。その苦しみを誰よりもご存じのイエス様の名によって祈るのです。その痛みを負われた主が、その祈りを無視されることはありません。

だから、無言の行いによって、主の御言葉にお従いするが故に、夫に従う妻の、その夫は、神様を畏れる純真な、混じりけのない妻の生き方を見て、信仰に導かれると主は言われます。そしてそこで一番間違ってならないことは、そんなことは私には無理だ、できないという考えは、完全に正しいということです。きっと多くの人がそう思うし、あるいは笑いながら、そんなの無理だと言うのです。アブラハムの妻サラが笑ったように。しかしそのサラこそが「神に望みを託した聖なる婦人たち」の代表になったのだと御言葉は励ますのです。

「聖なる」とは「神様の」という意味です。私には無理と思っても、私は神様を畏れてないと思っても、その私に、あなたはわたしのもの、聖なる者だから、わたしを信じて従いなさいと呼びかけてやまない神様が、わたしはあなたの無言の行いを、わたしの救いの業とすると言われるなら、それは実現するのです。笑ってしまうほど不可能に思えても、でも本当は信じたい、自分が無理だから、あきらめていたことを、神様に望みを託す聖なる婦人たちは、あきらめなくてよいのです。神様は、その婦人たちを笑うことは決してなさいません。人間の望みや努力では絶対に成し得ない、90歳で子を宿し産むという、約束の奇跡を、神様がサラに実現されたように、そしてその御業をサラが夫と共に目撃したように、神様を畏れ従う無言の行いを、主はご自分の御業として下さる!そう信じて待ち望んでよいのです。私たちにも、いつか一緒に笑える日を、主が!その御手によって運んで来て下さるのだと。

自分たちに無理なのは、主がご存じです。だから私たちは、自分には無理だと下を向いて笑うより、主に目を上げて、主よ、自分には無理だと笑われず十字架を負われた、恵みの御業を私の内にも行って下さいと人間の無理を神様に託して従うのです。そこに純真な神様の御業が目撃されます。罪人を負われる愛の主こそ、畏れ敬われる神様だからです。