ペトロの手紙一2章13-17節、コヘレトの言葉9章17-18節「人を敬い仕える証し人」

20/9/20主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一2章13-17節、コヘレトの言葉9章17-18節

「人を敬い仕える証し人」

敬いなさいと繰り返されます。それだけ、簡単なことではないのでしょう。特にその人が、どうしてこの人を敬わないかんがと、自分の目に映っている時。自分の目に、何でこの人は…とその人が見えていたら、人はその人を敬えないのでしょうか。

自分の心が見ていることを、そのままペタッと押し付けて、この人はこういう人と決めて、その人に対する自分の態度まで決まってしまう。心理学用語で、レッテル貼り、と名前がついているぐらい、厄介な心の頑なさですが、そのレッテル、たぶんその人に貼ってるのじゃなくて、その人を見る、自分の目に貼っているのじゃないでしょうか。それで、その人の真実の姿が見えない。その人が誰であるのかが見えなくなって…という厄介な目の暗さを、みんな抱えている。

この手紙で言えば、当時教会を迫害していた人々の目に、あの教会の連中は、クリスチャンはと、だから迫害してもかまんのだという何かが見えていたのでしょう。米国社会の病である黒人差別も、日本で根強い社会的な女性蔑視もそうでしょう。でもそれらを社会問題だとレッテル貼りすることで、自分は外から批判することができるのだと、自分に嘘のレッテルを貼ることも何と多いことか。そうやって、皇帝であろうと総督であろうと、首相であろうと誰であろうと、あの人らに自分の生活はまかせられないと、教会の中でもレッテルを貼っていた。自分たちの主人はキリストながやき、自分らをわかってくれん人らあに、自分らは従わんじゃちかまんがやき、世の支配からは自由ながやきと言っている人々が教会におった。それが、迫害をする人々の目には、ますます迫害をする自分らは正しいと思い込ませる、悪循環の泥沼になるのに。

それに対して御言葉は、それはキリストがくださった自由を言い訳にしゆうだけやき、私たちはそこからも自由にされちゅうがやきと、神様がくださる本当の自由に向けて私たちを説得するのです。

無知とか愚かな者と言われると、もうそこで悪いイメージのレッテルが貼られてしまいそうですけど、15節は、こういう言葉です。「知識がなくて思慮のない人々が静まるために、善を行うことが神様の御心なのです。」問題は、じゃあ知識がある私たちは、どう生きるかなのです。

前に読んだ本で、タレントのヒロミさんの言葉が記されていました。妻の松本伊代さんと子供が口喧嘩をしよった時に、ヒロミさんが子供にこう言うたんだそうです。俺の女になんて口をきくんだ!私それ読んでちょっと感動して、いつか子供に言ってやろうとバカなことを考えてましたが、もうこれで使えません(笑)。でもそんなこたどうでもよくて、じゃあ私たちは、十字架の神様の前で、どう隣人に対して生きていて、その神様から、イエス様から何と言われているかなのです。こう言われているんじゃないか。わたしが命を投げ出して愛している人に、なんて口をきくのか。なんて態度を取るのか。敬ってくれ。わたしはその人を無条件で愛していて、その愛が止まらない。その人が罪を犯したなら、赦してあげてほしい。わたしがその罪を担ったからと、主が言われる。この十字架の知識が、私たちの生き方を変えるのです。この十字架の愛の愚かさによって、人を敬わない人間の罪深い愚かさの本質が明らかにされるのです。どうして敬わないのか。その人のために神様が人となられて、その人の罪をすべて赦すために十字架で死なれたほど、その人が神様から愛され、敬われていることを、知らないからです。

その私たちが、でも十字架の意味を知ったのです。意味なき飾りではなかったのです。神は愛というのも美しい宗教の言葉かと思っていたら違ったのです。自分は関係ないと思っていた時には見えなかったのに、なのに目に貼られていたレッテルがはずれて、神様が私のために死んでくださったがや、私の罪をキリストが背負ってくれたがやと、十字架の神様が見えた時から、世界の見え方は変わり始めたのです。この人も、あの人も、キリストが死んで下さった人ながや、私と同じ、キリストが死んで下さった人ながやと知ったら、自由への入り口が開いたのです。この人を敬おうと。この人が神様の愛と救いと自分の本当の人生を知ることができるように、お仕えしようと敬える人生へと、歩み始める戸が開いて、そこでイエス様が手を差し出して、十字架で全ての人のために釘打たれた手を差し出されて、わたしについてきなさい、愛する子よと微笑んで言って下さる。その自由への旅立ちが、すべての神の僕たちにもう始まったのです。

だから私たちは敬います。敬老の日であろうと、自分に嫌なことがあった日だろうと。何があっても、何が起こっても、すべての人の真実は変わらんからです。永遠の神様から、あなたのためにわたしは死んだ、だから罪で死ぬな、赦されて生きよと、担われ、愛され、何があっても導かれている。神様の十字架で背負われている。その真実に生きるのです。この愛を、愚かにも、信じ、生かされて、救われるのです。