20/2/9主日朝礼拝説教@高知東教会
マルコによる福音書13章1-13節、エレミヤ書7章1-11節
「世の終わりだと思う時」
いま共に聴きました御言葉は、いささか聴いていて心がざわっとする内容であったかもしれません。その内容は、前半と後半で大きく二つに分けることができます。世の終わりについて語られているように思われる前半と、弟子たちに起こるであろう迫害について語られる後半。どちらかと言えば後半の迫害について語られた内容のほうが、キリスト者としては現実味を帯びて聴こえたのではないかと思います。
この迫害についての話を、イエス様がそこにいた弟子たちのために、おもに語られたのか。それともキリストの弟子であれば、誰もが心するべき事柄として、おっしゃったのかは、先の前半と後半を分けるようには、パッキリと分けることは難しいでしょう。キリスト者であれば皆が皆、このような迫害を受けたかというと、無論、そうでないキリスト者たちも多かったのです。必ず、あなたは迫害を受けますよというのではないことは、ご理解いただければと思います。
ただ、その上で、やはりこのことは全てのキリスト者が心しなければならない心構えとして、主が語られたことは疑いようのないことだとも思います。
譬えるなら、南海トラフ大地震がいつ来るか、私が生きているうちに来るのか、生きているうちは来ないなら、備えをしなくてもよいのか。恥ずかしながら、私は地震に備えて新しい懐中電灯を買わなければと思いつつ何か月、下手したら何年も経っています。で、ついあきらめて、準備できていない自分を自己肯定、自己正当化して、大丈夫よえ、と言いたくなる誘惑があることを否めません。流されてしまうのです。別にえいやかと言いたくなるのです。毎日、つかない懐中電灯の横を何回も通りながら、あ、やらないかん、あ、忘れてた、という、情けない自分を、もうどうしたらえいが?と思ってしまいます。
それと同じことが9節で「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とおっしゃって、迫害についての心構えを説かれた、イエス様の御言葉に対する態度・姿勢になってないか。自分のことだと思わないで日々を過ごすことになってないか。やはり、自分のこととして気をつけなければなりません。具体的には、この御言葉に向き合い、これを語られた主イエス・キリストに向いて、腹をくくって、祈り始めるのです。
それは単に、覚悟ができますようにという祈りではなく、自分は主の名のゆえに迫害を受ける者になってしまっているのだ、そして私はその時になったら、自分を迫害する人の救いのために、キリストの救いは、あなたがたのためでもあるのですと、聖霊様によって語らせてもらえる者になっているのだ、それが私なのだと自覚して、キリスト者として腹をくくるということです。言い換えれば、私はそこまで人々の救いのために、神様に用いられる者になっているのだ、私は十字架のキリストの弟子なのだと、腹をくくって生きる。これが今朝の御言葉です。
9節で「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」と訳された言葉は、「自分を注意して見よ」という言葉です。ぼーっと自分を見てしまいやすいのです。自分はキリストの弟子である。でもキリストの弟子はどう生きるのか。あるいは、自分ではそう生きたくないと思っていても、どう生きることになるのか、あるいはどう死ぬことになるのかを、イエス様はハッキリされるのです。あなたはわたしの名のゆえに全ての人から憎まれるとさえ言われます。これは相当キツイ言葉です。確かに迫害という状況のもとでは、憎むという言葉が相応しいのでしょうけれども、敢えて柔らかく言い換えれば、憎むとはユダヤ的な表現で愛さないこと、選ばないことです。自分を選ぶより、キリストを選ぶことを、自分の命を憎むと聖書では言われます。その意味で、例えば、あなたのことは好きだけど、キリストの部分は愛せない。あるいは、信じなさいと迫って来ない、ついて来なさいと求めないキリストとか、神は愛とかならいいけど、悔い改めを求めるとか、罪を赦すとか、他の神はだめとか、私自身そうだったからわかりますが、それはどうしても受け入れられないというのが、十字架のキリストのゆえに憎まれるという現実だと思うのです。そして、なのに、そのキリストを信じて生きる人に対して人が暴力的になる時、それを迫害と呼ぶのでしょう。
人が暴力を振るう時、それが言葉や態度だけであったとしても、その時に人は、まるで何かにとりつかれ、支配されて、人が変わったような顔をしていると思ったことはないでしょうか。無論、キリスト者も例外ではありません。誰かを笑いものにしたり上から見下して笑っている顔だけで、その背後に何かがいるのか、何か毒の影響でもあったのではないか、何がこの人に起こったのかと一種の恐怖を感じる時があります。でも、きっとそれは私の顔を見て、人が思う時もあるのだと思ったら、今、私はすごい傲慢な顔をしていたのじゃないかとか、ヒヤッとする時もあります。
自分の意志や意識を超えて、自分の思いや態度や行動を、それこそ乗っ取って、支配してしまうような罪の力を、私たちは知らないわけではないと思います。知っているのに、罪に自分を乗っ取らせてしまっている自分を発見して、最後には、それに麻痺して、もうえいかと思ってしまって、あるいは思うことさえなくなって、罪に対して惰性になると、救いがボヤっとしてしまうのです。この罪から救われなければならないから、イエス様が十字架で身を投げ出して下さったのが、なのにボヤっとしてしまうから、惑わされやすくなるのです。
それが5節でイエス様がおっしゃった「人に惑わされないように気を付けなさい」という言葉でもあります。もとの言葉には、人に、という限定はありません。とにかく惑わされやすくなる。惑わされるというのは、誤った道に導かれるという意味です。しっかりと見るべきゴールを見てないと、心がフラフラして、あっちだ、こっちだと言われることや自分で、これだ、あれだと思うことに、導かれてしまう。言い換えれば欲望に導かれたり、不安に惑わされ、安易な安心を求めて道を間違えるとも言えるでしょう。例えば、新型肺炎の流行に伴って世間がザワザワしている最中に、十字架のキリストを信じて、十字架のキリストに導かれて歩むキリスト者は、どこに目を留めて歩むのか。そこに生じやすい罪の問題を考えないまま、多くの人が求める一種の救いを、同じように求めて行動するということではないでしょう。言い換えれば、罪に惑わされないように、この世での救いに惑わされないように、気を付けなければならない。直訳は、注意して見なさい。見て、見極めるのです。
そのためには、イエス様が見つめておられる十字架の救いを、それがどんな救いであるかを、ただただ見つめ続けるのです。それ以外のものに心を奪われていると、ボヤっとして惑わされるからです。
3節でイエス様が、オリーブ山からは西の方角にある神殿の方を向いて座っておられたのは、きっと夕闇に沈む神殿を見つめながら、やがて来る裁きの日を思いつつ、ならばこそ、わたしは十字架に向かうのだと祈っておられたのではないかと思います。迫害の話をなさったのも別に弟子たちを怖がらせようとかではないのです。迫害が起こっても、その只中で、あなたがたは救いを伝えるようになる。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と、人々の救いに集中しておっしゃっているのです。
それは1節で、見て下さい、先生、何と素晴らしい石と建物でしょうと言った弟子の心が見ていた風景と、何と違うことかと思わされます。同じものを見ながら、見えているものが違うのは、その心が何を見て、何に注意して、心が奪われているかが違うからです。イエス様は、人々の救いに心を奪われていたことを、ずっとそのことしか頭になかったのだということを改めて思わされます。神殿崩壊を預言された時も、裁きのトーンで言われたのでしょうか。悲しんでおっしゃったのではないでしょうか。それで夕刻になってオリーブ山に移られても、神殿を見ておられたのだと思うのです。神殿がどうなろうと関係ないのです。そこで礼拝を捧げながら、なのに、そこで礼拝されている神様が求めておられる救いとは、別の救いを求めている人々が、どうか滅んでくれるなと、その罪を背負って十字架に向かわれる神様の姿が、そこにあるのです。
なのに、弟子たちの心にあったのは、世の終わりのこと。しかも神殿が木端微塵になるとかいう、他のしるしは何ですかと、心が他のところに、あるいは刺激的で関心を引くところにあるのです。人々の救いの話ではないのです。それより、この後、どうなりますか?世の終わりは、どのように来るのですか?それを知ってどうするのでしょう。終わりが近いとわかったら、そしたらその時に準備して、神様を向いて、終わりの日に起こる災害から救われたいということでしょうか。
だから、惑わされないようにと、イエス様はくぎを刺されるのです。戦争も地震も飢饉も、起こるのです。特に戦争や争いは起こるのです。罪がどうしてもそれを起こすからです。だから慌てるな、それは終わりの徴ではない!というのが、前半の急所です。自分の心や人の心が見ているものに、惑わされてはならないとおっしゃるのです。
そしてそれらは、むしろ、生みの苦しみの始まりだとおっしゃって、迫害の只中で、神様が人々に与えられる救いの機会を、福音が宣べ伝えられることをこそ、これが心に留めるべき本筋だと、弟子たちの注意を向けさせるのです。世の終わりがどうとか、世界がどうなるとか、神殿がどうなるとか、そういう終わりのことではなくて、生まれることに心を奪われなさい。終わりは来る。確かに来るけど、あなた自身の終わりを、しっかりと見据えるなら、あなたの終わりに注意を向けるなら、見えるはずだ。あなたは災いから救われるとか、そういう救いではなく、十字架で救われたキリスト者だから、最後まで、その救いのもとに自分を置きなさい。もし他の救いに心を奪われても、あなたの終わりは救いなのだから、あなたは救われるのだから、ならば忍耐して、その救いに全ての望みを置いて、他の人々の救いのために用いられてしまいなさいと、主は言われます。そこに主の、十字架の救いがあるからです。