20/2/16主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書13章14-27節、ダニエル書7章13-14節 「終わりは永遠の始まり」

20/2/16主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書13章14-27節、ダニエル書7章13-14節

「終わりは永遠の始まり」

イエス様が語られた世の終わりの描写は、聴く人の心に何かしら強い印象を与えるのではないかと思います。漠然と、恐ろしいと感じることもあるでしょう。あるいは逆に、ルネサンス以降の宗教絵画のイメージと重なるというのでしょうか、いわゆる昔の人が宗教として信じていた世の終わりのイメージとして、恐ろしい印象も現実味も持たないまま、言わば知識として心に入っているイメージが思い出されるということもあるかもしれません。こんなことは起こらないだろうというのが、多くの世の人の正直な思いではないかとも思います。

ただ、そうやって同じように、昔から人は、いや、そんなことは起こらないと考えて、いざ戦争が起こる段階になって、あるいは自然災害が起こって、パニックになって、惑わされることを繰り返してきた。そのことは忘れてはならないことだと思うのです。

今朝の御言葉でも「読者は悟れ」という言葉が敢えて挿入されます。これは、ここでイエス様が世の終わりと重ねながら語られたエルサレム滅亡の預言について、いや~そんなことはない…とボンヤリしていてはならないと、この福音書を記したマルコが忠告をしているのです。人は昨日も一昨日も大丈夫だったことは、きっと今日も大丈夫だろうと思いやすい。けれど、この徴は見落とすなという徴は確かにある。病気でもそうでしょう。うまく話せないとか、しびれがあるとか。昨日までとは違った何かが起こっている徴があったら、悟らなければならない。

今朝の御言葉を少し整理するとこうです。先に右頁下の2節で、主はエルサレム神殿の崩壊を預言されました。ただ、それに心を奪われて、世の終わりにはどんな徴があるんですかと、浮足立った弟子たちに対して、そういう大変な状況になった時にこそ、キリストの弟子たちは福音を証しすることに心を奪われていなければ、惑わされてしまうと、注意をなさったのが先週の13節までの御言葉でした。今朝の御言葉は、では実際にエルサレム神殿が破壊される時のことは無視かと言ったら、そうではないのです。その時にキリスト者たちがなさなければならないこともあるのです。ボンヤリしちょったお前らが悪いという自己責任の神様ではないのです。実際に西暦70年、ローマ軍が神殿もろともエルサレムを壊滅させる数年前に、ユダヤ原理主義者たちが、自分たちに反対する人々を殺したテロリストをヒーローにして、神殿で好きなことをした。それを見たキリスト者たちは、これはイエス様がおっしゃったことではないかと注意して、ローマ軍がエルサレム向けて進軍してきた時に、都に入ってはならない、イエス様が命じられた通りに、逃げろ!と、ペラという名の町に移り住んだという記録が残されています。普通は城壁がある都に逃げ込みます。でもイエス様は、山に逃げろと。城壁など役に立たん災いが来るからです。しかもすぐ!屋上から屋内に降りて財産をまとめてなんてしないで、飛び降りるようにして走って逃げろと言われます。津波を経験している私たちにはよくわかる話だと思います。でもそれでも、もし心が家の中のあれやこれに奪われて、いやまだ大丈夫、自分は大丈夫、昨日も一昨日も大丈夫やったと過信するなら、イエス様の言葉より、自分の大丈夫に心が信頼しておったら、ちょっとぐらいと思うんじゃないでしょうか。頭では、それが命取りかもと知りながら。

今朝の御言葉で、注意しなければならない言葉が二つあります。一つは「それらの日には」という言葉。いま説き明かしました、逃げろという話の17節、そして19節にも出てきます。「それらの日には…」そして下の段24節でも「それらの日には、このような苦難の後」と語り出して、本当の世の終わりの時、つまり先に旧約で読みました預言の通り、イエス様が神様の栄光に包まれて、天から来られるのを人々が文字通り目で見る時です。その時に私たちが生きておったら、どんな思いで見るのでしょう。きっと想像を超える思いになると思いますが、それを先に言いました、現実味のない宗教絵画のように、いま心が見ているのか。それとも現実味をもって見ているのか。どんな現実味か。恐ろしい話だと思うのか。あるいは、主を畏れ敬う信仰、信頼関係の内に、イエス様を、もう既に見ているのか。そこに私たちの心が向くために、主はこの御言葉を、単に神殿崩壊の話と世の終わりの話の二本立てという話ではなく、それらを一つのこととして語られるのです。そしてそれらは別々の話ではなくて、しかも今の時代の私たちからしたら、どっちの話も、ピンと来んなあという他人事でなく、その二つの間に挟まれた私たちにとっても、それらの日が本当になかったか。前の世代にはあったけど、被災した人々にはあったけど、と思うなら、今日それらの日が来ないと誰が言えるだろうかと、他でもない、全ての歴史を包み込んで見ておられる人の子、イエス様が「それらの日には」と語られるのです。そして「あなたがたは気をつけていなさい。一切のことを前もって言っておく」と、注意を念押しされるのです。

そういう「それらの日には」世界が始まって今後もないほどの苦難がくると主は言われます。こう考えたらよいと思います。苦しみを、その大きさや重さで数値化して、これが歴史一大きい苦しみだと言うことはナンセンスです。どの苦しみも、その苦難の中にある人にとっては今後も決してないほどの苦難だと思います。でももし大きい小さいで考えていたら、それっぱあの苦しみでと人を裁いて、その苦しみの中にいる人の救いのために、立ち損ねてしまうのではないかと心配します。むしろイエス様が、それらの苦しみの只中で見ておられるのは、その苦しみの期間を、主が縮めて下さらなかったら、誰一人救われなくなってしまうという、その人の救いの問題なのです。救われてほしいのです。苦難で終わってしまうのは、十字架で、その人の救いのために命を投げ出された主の御心ではありません。だから主は、20節の続きを直訳で言うと「主が選ばれた選ばれた人たちのために、その苦難の日を縮めて下さった」と約束し、励ましておられるのです。

ここで、先に申しました注意しなければならない言葉の二つ目が出てきます。「選ばれた人たち」という言葉です。これが22節でも「…できれば選ばれた人たちを惑わそうとする」。そして最後の27節で「その時人の子は…」。いずれも、イエス様が命を捨てて与えてくださった救いに関わる、言わば重要人物たちとして描かれます。そこが今朝の御言葉の急所です。何故か。そのイエス様の命がけの救いを、人々に宣べ伝え、手渡しするために、主から選ばれた人々だからです。

先週の9節で「あなたがたは、自分のことに気を付けなさい」と主は注意されたうえで、その自分は誰であるのか。迫害の中で、キリストの救いをこそ宣べ伝えるために、聖霊様によって用いられてしまう、救いの証し人、宣教者たちなのだと明確におっしゃいました。

そして、そのために選ばれた人たちは、先に言いました「それらの日」の苦難、苦しみの中で、迫害という苦しみにも遭うかもしれない。でもそれもまた神様が、それを選ばれたのであるならば、覚悟して、自分が誰であるかを、目を見開いて見て、私はこの苦しみの中で、でもこの時にこそ救われるべき人に、キリストの救いを宣べ伝えるために、私は、主から選ばれた人たちの一人なのだと、信じて良いのです。

ともすると「選ばれた人たち」という言葉は、偉そうに聞こえる既に手垢にまみれた言葉かもしれません。もしそうなら、これも偽預言者が主の言葉を嘘の手垢まみれにして惑わせようとしているのかもしれません。世の中では、偉い人、持っている人、人と比べて優れた人が選ばれるから、偉そうに聞こえてしまうのじゃないでしょうか。

ならばこそ今朝の御言葉は、主が選んだ人たち!と強調するのです。人間が選んだのではない。自分で選んだのでもない。選ばれた理由も、人の上に立つためではない。むしろ、人の下に謙って、その人の救いのために仕えるために選ばれたのが、十字架のキリストの弟子たちです。

そのことは何度でも、改めて確認したほうがよいと思います。この世では、選ばれる理由が、選ばれた人にあるのです。かわいいとか。能力があるとか。そうじゃないでしょうか。それを教会でも間違って自分に当てはめて、私が救われたのは、私に理由があると考えてしまう誘惑に惑わされてしまうことは、やはりあると思います。そして本当は、人の救いに仕えるために選ばれているのに、どうしてあの人は救われようとしないだろう、自分は信じたのにとか、自分は教会に行ったのにとか、惑わされて考える。あるいは逆に、選ばれたなんておこがましいと考えて、信仰告白で「神は恵みをもって私たちを選び」と告白するたびに、引け目を感じたりするかもしれません。

でも選ばれた理由は自分にはないのです。ないのなら、そのない理由を、人と比べる必要もありません。人にもないのです。比べようがないのです。比べられないなら、おこがましいも何もないでしょう。比べるから、意識するから思うだけで、人が比べる対象でなくなったら、その思いは消えていくのです。

人は比べる対象ではありません。神様から愛されている存在です。皆がそうです。私も、あの人も。何故、人が救われるのか。神様がその人を救われるからです。そしてそのために神様は、神様が選ばれた人たちを用いられるのです。その理由も、その人にはありません。理由があるとするならば、選ばれた人たちを通して、キリストの救いを受ける人にあるのです。その人が救われるため。それが、私たちが選ばれた人たちと呼ばれる理由です。その人たちの救いのためなら、その人たちと共に苦しんでいる選ばれた者たちのためにと、その苦しみの期間を縮めさえして下さる神様なのです。それによって、選ばれた者たちの使命が全うされるためにです。そうでなかったら、誰一人救われないから。そうはならないために、そこにいる選ばれた者たちが使命を全うするために、救いの主が苦難を縮めてくださったのです。だからサタンも、できれば惑わそうとするのです。人が、救われないためにです。

だから、と23節で主は言われます。あなたがたは気をつけていなさい。よく見なさい。自分が誰であるのか。私たちはキリスト者なのです。