マルコによる福音書11章1-11節、ゼカリヤ書9章9-10節「お荷物なんかじゃない」

19/11/17主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書11章1-11節、ゼカリヤ書9章9-10節

「お荷物なんかじゃない」

いま共に聴きました御言葉は、教会の暦で受難週、イエス様が十字架で死なれた週の初めの日、教会がずっと読んできた御言葉です。日本の教会では、その日曜日を棕櫚の主日と言います。子ロバに乗ってエルサレムへ上って行かれたイエス様の前に、人々が自分の服や、葉のついた枝を道路に敷いて、言わば即席のレッドカーペットを作ります。戦いに勝利して帰ってきた王様の凱旋の時、民が行う歓迎の様子を模したものだと言えばよいでしょうか。王様、お帰りなさい!と迎えるわけです。その葉のついた枝を、日本だと棕櫚の木の枝に近いから、棕櫚の主日と呼んだようです。季節としては春なのですが、この時のイエス様の心の色からすると、もしかすると今の季節、これから冬に向かうような季節の色に近かったかもしれません。5日後には十字架で死なれるご受難の心構えをなさっていたに違いないからです。

でもそのお気持ちは、イエス様を神様から遣わされてきた救いの王だと信じて、ホサナと歌っていた人々には想像もできなかったでしょう。彼らは、今朝の御言葉のすぐ前にあります、小見出しで言うなら、盲人バルティマイがイエス様によって癒されて、おそらくこの時にも一緒に従ってきているのを見ている人々です。他にも多くの奇跡がなされた、ガリラヤから、この週にエルサレムで祝われる過越しの祭りを祝うため巡礼してきた、この群衆は、イエス様がバルティマイになさった奇跡を目の当たりにして、そのイエス様と一緒に、エルサレムまで1キロ強のベトファゲの村にまでやってきて、さあ、いよいよここからエルサレムに足を踏み入れる、言わば聖なる区切りのポイント、というところまでやってきた。そういうポイントがあったようです。日本で言うと神社の鳥居が、まだ社のだいぶ手前に立っているようなもんでしょう。そこにいよいよ来たというだけで巡礼のテンションが上がるのに、更に、そこに、神様から遣わされたのでなかったら、こんな奇跡は起こせんろう!と信じるイエス様がおられて、しかもそのイエス様が、そこでよいしょと子ロバに乗られて、さあエルサレムに行こうと、弟子たちに連れられて進まれるのです。あの子ロバ何でえ?あれはゼカリヤ書の預言にあるロバの子よえ、勝利の王が帰って来られたがよえ!と、それを知ったらもう群衆は大興奮で、そらあ歌も歌う。そうでなくても巡礼の旅で歌う詩編118篇の歌を、イエス様の前と後ろで、交互に呼びかけるようにして歌ったようです。

ホサナ。救って下さい、今!という意味ですが、ほとんどハレルヤと同じ、喜びと賛美の言葉となっていたようです。人々がホサナ、ホサナと叫び歌う、その真ん中に、しかし十字架に向かわれる王なるイエス様が進まれるのです。しかもこの時に初めて人を乗せたほど、まだ小さな子ロバの背に乗っての前進です。明らかに力強い前進ではない、弱々しい、ヨロヨロとした歩調で、その前後で力強くホサナ!と叫ぶ賛美とはアンバランスな雰囲気で、救いの王が行かれるのです。

なんで、そんな非力な子ロバに乗られたのか。一つには、先に申しましたように、そこにゼカリヤ書で預言されていた約束が成就するからです。そこには、こう約束されていました「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ロバに乗ってくる。雌ロバの子であるロバに乗って。」

この王は、高ぶらない柔和な王として、ロバの子に乗ってくるんだと預言されたのですが、それは、神様が軍馬、戦争のための馬を絶つからだ、もういらなくするからだ、何故なら、この王が行う支配は、戦いの弓を廃棄する、平和の支配だからだ!と約束するのです。それが子ロバに乗られることによって啓示される、救いの王としてのイエス様のお姿だからです。

そこで改めて、この子ロバについて考えたいのです。この子ロバは、遣わされた弟子たちがイエス様から、村に入ったらすぐ見つかるき、と言われておったほど、本当に小さかったんだと思います。え、あれでねとすぐわかる。その子ロバを主から言われた通りにほどこうとすると、「その子ロバをほどいてどうするのか」と、ま、当然聞かれたのです。それは、言い換えるなら、え?そんな力のない、まだ誰も乗せられないような非力な子ロバやのうて、親のロバにしたら?何の役にも立たんぞと。そこで弟子たちが言うのです。直訳すると、この子ロバの主が必要としているからです。貸してくれた人たちは、この弟子たちがイエス様のことを言っているのが、わかったのかもしれません。主が?何の役に立つかは、わからんけど、こんながで良かったら、持ってけ持ってけと笑って貸してくれたのかもしれません。

どうするが、そんな子ロバ?と。でも、十字架で人々に殺される非力な子ロバの主が、この非力な子ロバを必要とされるのです。ご自身が、どういう王であるのかを、世界に示すために、です。

ゼカリヤ書で約束されていた平和の王は、軍馬は必要とせんのです。軍馬で人を踏み潰して勝つような戦いを必要とはされんからです。そういう勝利によって、どんな勝利を得るというのでしょう。思い通りになるということでしょうか。それが支配するということでしょうか。人の支配ならそうかもしれません。そういう支配ばかり確かに見るのかもしれません。あるいは、私たち自身、そうやって力で相手を支配したいと思うことは、やはり否めない心の事実だと思うのです。人を意のままに動かす人を見たら、あの人は力ある人だと思うのです。

しかし、子ロバの主は、ともすると私たちがそうやって欲望する力によって、上から人を支配することは、なさらんのです。むしろ、今朝の御言葉に至るまでに、三度、弟子たちに十字架の教えを繰り返されてきたところでは、どうしても人の上に立ちたい、人に勝ちたい弟子たちに対して、世の支配者たちはそうでも、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。人の子がそうなのだからと、ご自分の王としてのご支配が、どういうものであるのかを繰り返し教えられてきたのです。相手の上に立って、相手に勝って、上から支配することは、十字架の主のご支配ではないからです。そしてそれは主が私たちの間に望まれる生き方でもないのです。むしろ子ロバの主であるイエス様が、ずっと示されてきた、そして今朝の御言葉から、いよいよ始まる十字架のご受難において最もハッキリ現わされた主のご支配は、主は私たちを、その私たちの罪と裁きごと背負われることによって、私たちの命を、まるごと、しかも永遠にご支配される。それがキリストのご支配なのです。そしてそれがキリストによって私たちをご支配なさる神様の、神の国の生き方なのです。

子ロバに乗られる主がそれを現されるのです。馬なら人を上から見下ろせますけど、まだ人を乗せたこともないほどに小さく、弱く、非力な子ロバですよ。イエス様、自分で歩いたほうが早いんじゃないですか。

でも、その非力な子ロバを、わたしは必要とするんだと、主は言われるのです。うまく人を乗せることもままならないような、そんな非力な子ロバこそが、「主がお入り用なのです」と言われて、主に必要とされるのです。その力のない、いや、もう一度ハッキリ言えば、人を踏み潰すような力を持ち得てないからこそ、そこに平和のご支配を打ち立てられる十字架の主が世に証される、その証のために必要な非力な子ロバを、主はお入り用なのです。

イエス様が「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」とパウロに言われた御言葉を思い出す方もおられるでしょうか。今のは口語訳ですが、確かにそうだなと思うのです。なので、ぜひご一緒にその御言葉を開きたいと願います。コリントの信徒への手紙二12章9節以下。新約聖書339頁です。少し注釈をつけながら読みます。

「すると主は…」(力:わたしの恵みの力)(十分に~:目的を果たす)

この力は、人を踏みつけて上に立って勝つような力ではありません。そんな強さは十字架の神様が私たちに対し、また私たちの間で望まれる強さではないことを、私たちは、ヨロヨロと主を乗せて歩む子ロバから知らされるのです。この子ロバを主はお入り用です。そこにキリストの恵みの力が働いて、私たちを通して、主が人を背負って歩んで下さるのです。必ずしも、それは私たちが誰かを背負うということではありません。弱さの中で私たちが苦しむ時、あるいはそこで二重に苦しむのは、もし力があれば、もっと奉仕できるのに、誰かの役に立てるのにと思う苦しみではないかと思います。でもそれと同じことを、きっとパウロも思ったのです。力があればと、きっと誰もが思うのです。でもそこで、子ロバを思えばよいのです。この子ロバは他の誰を乗せたのでもない、イエス様を乗せたのです。イエス様が、あなたが必要だと言って下さったからです。だから私たちの弱さの中、病の中、老いの中で、キリストの恵みのご支配が明らかにされることを祈り求めて、私は、こんなにも背負われて、赦されて、愛されて、永遠の命と祝福の約束の中に、この弱さの只中で、完全に受け入れられているのですと、ただ子ロバの主であるイエス様を乗せて歩めばよいのです。人から何と言われようとも、群衆のスピードについていけなくても、自分で自分をどう思おうとも、そのあなたを主がお入り用なのです。子ロバの主に用いられる理由は、それで十分です。わたしの恵みはあなたに十分だと、主は言われます。主の前に、お荷物な人なんて誰もいない。主が私たちをお入り用です。この恵みのご支配のもと、私たちは主に向かって、真実にホサナと賛美できるのです。