マルコによる福音書10章46-52節、イザヤ書11章1-10節「憐れみ深い主を信じる」

19/11/3主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書10章46-52節、イザヤ書11章1-10節

「憐れみ深い主を信じる」

バルティマイは、イエス様から「行きなさい」と言われて、目を開いて頂いて、そしたらきっとイエス様のお顔が真っ先に飛び込んできたのです。そしてきっとそれで、行くところが決まってしまったのだと思います。この道を行かれるイエス様に従って行こうと。

この道、それはエリコからエルサレムに向かう、イエス様の旅の最後の道、十字架に向けて、そのために人となられた神様が真っすぐに進まれる道でした。この後すぐ、エルサレム入城の場面になるのです。

その道を、大勢の群衆がエルサレムに向けて一緒に進んでいました。ちょうどイスラエルの三大祭り、過越祭のために来た巡礼の旅人たちがガリラヤ地方、また他の地方から大勢来ていました。ガリラヤで多くの奇跡を行われた約束の救い主と目されるイエス様と、神の都エルサレムに一緒に入れるなんて、どんな気持ちであったろうかと思います。

でもその中の多くの人は、その救い主の憐れみを求めて叫んでいる、道端の目の見えない人を叱りつけるのです。静かにしろと。

そして、おおよそ一週間後、イエス様と一緒に向かったエルサレムで群衆は祭司長たちに唆され、イエス様を十字架につけろと叫びます。

その叫びの中におられたイエス様は、その人々の罪を負って十字架に釘打たれ「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」と、世界が見捨てられないための身代わりとして叫ばれるのです。

私たちは、今どんな叫びの中にいるのでしょうか。自分は叫んでなくても、誰かが叫んでいるのです。神様は、その叫びをご自分の叫びとして背負われて、十字架で叫ばれる神様です。叫びを無視されない神様。うるさいとおっしゃらない神様。その神様の前で、様々な叫びが交差します。叫ぶような神様の思いと人間の思いとが交差する。私たちはそこで、誰のことを思うのでしょうか。神様のことを思うのか、人間のことを思うのか、そして神様に思われている人間のことを思うのか。

バルティマイは、毎日道端に座りながら、誰のことを思っていたのでしょうか。目には見えないけど目の前を通り過ぎていく大勢の群衆の口から、ナザレのイエスがこの中におられると聞くなり「ダビデの子よ」と彼は叫びます。神様が聖書で約束して下さっていた救い主の呼び名の一つが「ダビデの子」であることを彼は知っていました。先に読みましたイザヤ書の「エッサイの株から萌え出た一つの芽」。エッサイはダビデの父の名ですから、これもまたダビデの子、あるいはダビデの子孫として生まれてこられる方が救い主であることを預言した御言葉です。旧約のサムエル記には、ダビデがどのように神様から王として選ばれたかが記されてあります。預言者サムエルがエッサイの息子たちを招いた時、エッサイは末っ子のダビデはえいろうと呼ばんかったのです。この人はえいわと、人の目には選ばれない者。そのダビデを、しかし神様は目に留めて、既に選ばれていました。神様の思いは人の思いと違うのです。

そしてそれは、ダビデの子と呼ばれる救い主を、どういう救い主だと思うかについても、言えるのです。ダビデの子である救い主の憐れみを求めて叫んでいるバルティマイを、ダビデの子は果たしてどう思われるのか。神様はこの人を、どう見ておられると、私たちは思うのか。それが、その人に対する接し方、向き合い方としても現れてくる。言い換えれば、そこに私たちの、神様に対する向き合い方も現れるのです。

先日、四国障害者キリスト伝道会の講演で、篠浦先生がご自身の証をして下さいました。小学生の頃、向こうから歩いてきた小さな男の子が一緒にいた母親に尋ねた。「あのお姉ちゃんはどうして足が悪いの?」。何と答えるのだろうかと、耳をそば立てると、その母親はこう答えた。「あの人は、お母さんの言う事をきかない悪い子だったから神様の罰が当って、ああなったんだよ。だからおまえもいい子にしてないと、ああなるんだよ」。本当にショックだったと言われました。

バルティマイは、人が見るようには自分を見ておられないダビデの子が、どういう目で自分を見て下さるのだと信じたのか。また信じたから叫び続けることができたのか。そこにイエス様はバルティマイの信仰を見られたのです。バルティマイは信じたから叫んだのです。人々から、しかも多くの人々から叱りつけられ、黙らせようとされても、やめんのです。日本だったら、皆に迷惑やきとか、皆が嫌な顔をしちゅうろうとか、あるいは一緒にいる人が、恥ずかしいき止めと、自分の恥ずかしさを理由に言うのかもしれません。でもバルティマイは、見えないけど、でも信仰の目でダビデの子を見て、信じて、叫び続けたのです。人の目ではない、神様の目だけは私を正しく見て下さる。私の救い主は正しく見て下さる。それが深い憐れみをもって神様から遣わされて来られる、神様が選ばれた救い主であると、キリストを信じる信仰です。

だから叫んだのです。そうやって主に伝えたのです。ここにいます。ここにあなたを信じる、あなたの憐れみを必要としている者がいます。見つけて下さい。憐れんで下さいと。この時のバルティマイのように、どこに主がおられるのかが、わからない時も、私は主を見つけられないけど、ダビデの子なる救い主は、私を見つけて下さると、私を見つけて憐れんで下さると、信じて叫び続けてよいのです。

そのバルティマイを、主が呼ばれます。そして、この御言葉で大変に重要で心に残る、教会的な主の憐れみは、イエス様が直接行って呼ばれたのではなく、あの人を呼んできなさいと、人々に言われたことです。どの人々か。はっきりしません。でも文章の流れからすると、彼を叱りつけた多くの人々に、おっしゃったのかもしれません。

恥ずかしいことに、この説教の準備のため最初に、ここを読んだ時、ここには、この人に安心しなさいと言った人々と、この人を叱りつけた人々がいる。私たちはどっちの側に身を置くのかと、そういう読み方をしました。でも自分のこととして具体的に考えた時、同じ人々だったのじゃないかと思い直しました。つい何も考えないで、いや、自分のことしか考えてなくて叱りつけてしまったけど「あの人を呼んできなさい」と言われたイエス様のお顔を見たら、ああ、自分には憐れみがなかったと悔い改めた人々が「安心しなさい、立ちなさい、主があなたを呼んでおられる」と伝えたんじゃないか。その憐れみの中に自らも立ったその足で、主が呼んでおられる人のもとに行き、伝えて、その人の手を引いて、憐れみ深い主のもとに、一緒に立ったのじゃないかと思うのです。

マタイによる福音書5章のイエス様の説教を思い出します。「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」。自分は憐れまれなくて済む余裕のある人が憐れむのではありません。そうではなくて、私たちには主の憐れみが必要ですと、主の憐れみのもとに身を置いて、共に生きられる幸いを、そうだ、あなたは憐れみを受けるから幸いなのだと言われるのです。他でもないダビデの子であるイエス様が保証して下さっている幸いです。その憐れみによって十字架に貫かれて下さったダビデの子が、そうだ、わたしはあなたがたを憐れむ、その信仰があなたを救ったと言ってくださるのです。

私たちは、この十字架の救いの信仰に立って、イエス様、私はあなたの憐れみを必要としています、そしてあなたが行きなさいと遣わされる先の人々も、皆、あなたの憐れみを必要としています、主よ、憐れんで下さいと祈ればよい。そして主の憐れみに生きるのです。そしたら人を叱りつけることからも救われて、一緒に安心して言えるのです。憐れみ深い主が呼んでおられます、安心しなさいと。それが救いの信仰です。