マルコによる福音書6章30-44節、詩編23篇「力は愛と憐みのため」

19/5/26復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書6章30-44節、詩編23篇

「力は愛と憐みのため」

人間は休みが必要です。十戒でも、安息日を心に留め、これを聖別せよと命じられています。安息が必要だと。でもどこで人は、本当に安息できるのか。安心して息ができるのでしょうか。

今朝の御言葉では、弟子たちがイエス様から遣わされた伝道ミニ旅行から帰って来た。なのに食事する暇もなかったので、イエス様が、その弟子たちを憐れまれて、少し休みに行きなさいとおっしゃった場面から始まります。

ただ「人里離れた所へ行って」と言われたのは、何も山奥でBBQとかしようやというのではなく、祈りに行くという意味の言葉です。神様のもとで、静かにゆっくり祈る時を持とうと。羊を世話する羊飼いとしてではなく、神様の羊として、先の詩編23篇が語る、私の羊飼いである主のもとで、あなたは憩う必要がある。ゆっくり息をして、大きく祈る、霊的休息が、あなたには必要だと主は言われるのです。

これ、主の日の礼拝のことを、すぐ思われるんじゃないでしょうか。世間では平日の疲れを癒すために、朝9時ぐらいまでゆっくり寝る人もおられると思いますが、その休みを言わば返上してでも礼拝しに行く。よう続くねえと人から思われているかもしれませんが、そういう方々もレジャーで山に行くのに朝早く起きて出かけたりします。私インドア派なので、疲れん?て聴いたら、むしろリフレッシュすると言われます。そうか、礼拝と同じか、と思うのです。

神様は、私たちがリフレッシュするために安息日を定められました。人は、その創り主のもとで、魂に憩いを得るからです。

先日、徳島であった青年集会の礼拝説教の時、かなり豪快に寝ている方がおられて、説教者がこう言った。牧師だった父から厳しく言われている。説教中に寝ている人を起こそうとするな。主からの安息を頂いているんだからと。まあ、場を和まされたのもあると思いますが、やはりリフレッシュしに礼拝に来られても、疲れているのは疲れてますから、そら寝てしまうことは当然あります。大丈夫です。ただ、もし椅子から落ちそうになったら、手を差し伸べてあげてください(笑)。

イエス様が弟子たちと人里離れた所に行ったのに、そこにまで先回りして来た群衆の顔にも、イエス様は疲れを見て取られたと思います。

無論、そこで何より主が見られたのは、人々の霊的な疲れでしょう。人は、神様でしか解決できない問題を抱えて生きています。その解決を求めてイエス様のもとに来られた人々を、イエス様は深く憐れまれた。腸がわななき震えるという言葉です。詩編23篇がうたう羊飼いとして、羊飼いのいない羊たちのように、魂に安息を得ていない人々をご覧なられて、神なき命の苦しさ、神様の恵みに生きるいのちが欠乏している姿を、体の芯から深く憐れまれました。

そこに体の疲れも見て取られたでしょう。だってイエス様のところに行かなと、自分たちで移動してきたのですから、そら疲れたでしょう。でも疲れてでも、イエス様のもとで神様の力を頂かなと思って、その力が、どんな力かはわかってなかったかもしれません、知識も貧しかったかもしれません、それでもここでしか頂けん力がある、ここに神様の力があるからと思って、疲れてでも、やって来た。その全てを見られて、私たちの羊飼いは深く憐れんで下さいます。その私たちの欠乏を満たすためにこそ、十字架でいのちを与えに来られた神様だからです。

そこでイエス様は、ではどうしたら欠乏が満たされるのか、神様の力は、どんな力であるのかを、人々に教え始められました。霊の糧、神様の言葉を与えられた。いきなりパンじゃなく。この順番は大事です。

でも、もっと大事なのは、その教えの内容を、人が知って、信じて、罪赦されて、神様のものとされて、救われることです。その愛を知り、その愛の御心に身を置くことで、人は救われて生きられるからです。

先に礼拝はリフレッシュのために定められたと言いましたが、礼拝でどのようにリフレッシュされるのか。やはり御言葉を受けて、その愛の御心を知って、その神様に身を委ね、信頼するところで、大きな安息の息をすることができる。リフレッシュされて生きられるのです。これが神様に与えられたいのち、これが本当の私、天の父の子である私だと、本当に魂が生き返っていくのです。

だから礼拝に来るのでしょう。疲れていても。いやならば尚のこと、礼拝を求め、御言葉を求めて、よいしょ言うて身を起こす。

日本の教会では、牧師は忙しい、という言葉をよく耳にします。でも実は牧師も、教会員を見ていて思う。お忙しいのにと。皆さんが牧師を見て思っているのと、同じ心理なのかもしれません。外の仕事でも家の家事でも、せないかんことは山ほどあるのです。それやってたら、そら忙しいに違いない。学校の先生なんてブラック並みでしょう。クラブの顧問とかあったら5時チンなんてありえない。小さい子供の子育て中のお母さんみたいに、自分の時間なんてないと思います。でも礼拝に来られる。奉仕さえなさる。何故でしょうか。ここに、いのちがあると知っているからでしょう。皆で天の父に向かい、御言葉を求め頂き、神様を礼拝するところで、その神様に造られたいのちが潤される。土佐弁で、おおの生き返ったと言うところのリフレッシュされる恵みを受けることを、体と魂で、実際に知るからです。

それは神様の愛に生きるいのちにリフレッシュされるとも言えます。生きるために必要なのは、心臓だけでなく、心が健康に動かないかん。そのためには、血が心臓を通うように、心を通う愛が必要です。愛されること、そして愛することが、心が心であるためにはどうしても必要。

だからです。神様の愛のもとで奉仕をするとリフレッシュする。神様を愛し、隣人を愛する、愛の奉仕を捧げることで、イエス様のいのちが心を巡り、体にも染みてくるからです。不思議と憩う。

ですので、言わずもがなだと思いますが、もしイエス様の愛を受ける御言葉のもとで、ではなく、やらな、やらなと奉仕したら、疲れます。空っぽになる。何で私ばっかりと、文句さえ言いたくなる。

でも礼拝で、祈りの中で、十字架の愛を頂いて捧げる時には、こんな私を用いて下さって、ありがとうございますと、愛する中で愛を頂く。赦しの愛を受けて、その愛に動かされて愛して、そのことで十字架の愛をまた受けて。この神の愛の循環がないと、疲れてしまいます。心臓を患うと循環器科に行きますが、私たち、患うんです。愛の循環を。受けることばかり求めていると、逆に受けられなくなる。心が狭くなって。与えてばかりも同様。愛は循環するものだからです。

ただ、それが分からんなって、何で?って思ってしまうのも、人間の貧しさを現わしていると言えるでしょうか。憩いが必要な弟子たちに、まるで更に奉仕せよと、彼らに食べ物を与えなさいとイエス様から言われた弟子たちは、え、何てブラックな羊飼いだと思ったでしょうか。

彼らに食べ物をって、え?男だけで5,000人はいる。全部で1万人はいるじゃないか。一人頭100円のパンを買ったとして100万円のパン!200デナリオンって大体そんなもんですから、嘘でしょ?と。だって、最初はイエス様、少し休みに行こうと言われたんですから、がっかりしますよ。頭にきたんじゃないか。だって休む言うたやないですか!と。休暇の予定が突然つぶれるようなもんですよ。言わば他人が押しかけて来て、いや、けんど休みやき、もう休みモードになっちゅうきと思っているところに、一緒にいる夫あるいは妻が、あるいは子供たちにとっては親が言うんですよ。どうぞ、お入り下さい。お話を聞きましょうと。で、まあ小一時間もお話をしたら、少し待てば出かけられるかと思って我慢して待ちよったけど、一向に話が終わらない。待つのにも疲れて、ちょうど晩ご飯時やきと思って、ねえ、もう遅くなったき、また来てください言うたらと、言いに行ったら、ほんまやね、ご飯出しちゃってとイエス様は言われた。え~、ご飯?

でも弟子たちは、パン幾つある?見て来なさい、確かめてきなさいと言われて、見に行ったんです。私ね、えらい、素直じゃかと感心した。私なら、行かんでもわかりますと言いそう。口だけ、頭だけで。先日も妻に怒られました。はい、まず立つ!まず動く!言うて(笑)。弟子たちは立ちあがった。動いて、見に行った。そうでね、と思いました。

人は確かにそうやって、御言葉を聴いて動くところ、従うところで、自分にはない、神様の愛の豊かさを知るのです。それは牧師として繰返し体験させられたことでした。忙しい時、時間を逆算して、よしこれでいけるとテンション上げて、やるぞと思った時に、突然に大変な電話がきたり、自分ではとても対応できないことが起こる。なぜ今?と思う。でもそこで、いつも主から問われるのです。あなたが何かやって、何か人に与えているのか?わたしが与える恵みを、分けているのだろうと。そして、ああ、また自分自分になっていたと思う私に、ではこの恵みをあなたからこの人に手渡してほしい。わたしからだと、わかるように、一緒に祈って、手渡してほしいと。パンも魚も、富も時間も、恵みは、分けるもの、シェアするものだからと主は言われるのです。

人は自分のものを数えるから、貧しくなるのです。実際、数で言えば貧しいと思うことがあってもです。でもそれを、分かち合うために神様から与えられた、恵みとして数え、捧げたら、そこに奇跡は起きます。必要は、神様が増やして満たして下さるからです。

永遠の神の独り子、三位一体の御子を、私たちの罪を償う犠牲として捧げて下さった天の父です。ロマ書8章で、こう約束される通りです。「私たち全てのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜わらないはずがありましょうか」(8:32)。賜わらないはずはない。その深い憐れみを、キリストによって保証された恵みを信頼して、その愛のもとに身を置いて生きれば良い。そこに私たちを生き返らせる、魂の憩いがあるからです。