マルコによる福音書4章35-41節、詩編46篇「命をかまわれる救い主」

19/3/31受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書4章35-41節、詩編46篇

「命をかまわれる救い主」

先日の高知新聞に、平成の化粧の移り変わりというのが、女性たちの写真と共に紹介されておりまして、そこにガングロという懐かしい言葉もありました。確か顔面を真っ黒に日焼けさせるのでガングロだったと思いますが、それが余りにも激しく黒いので、ガンガンに激しいという意味に転じ、そこからガンガン食べるのをガン食いとか、激しく寝ているのをガン寝などと20年前は私も言うておりました。

今朝の御言葉でのイエス様のお姿です。ガン寝。舟の後ろのほうで、それはもう激しく寝ておられた。突風で水浸しになって、ガン揺れの、ガン濡れになっているのに、ガー寝ておるんですから、まあそれほどに激しくお疲れだったのだと思います。舟に乗って、もういきなりガクンとか、イエス様には悪いですが、白目むいておったりされたのかもしれません。それを見た弟子たちが、どうぞどうぞお休みくださいと言ったのじゃないでしょうか。弟子たちの内の四人は、このガリラヤ湖を漁場としておった漁師です。言わばガリラヤ湖のプロが四人もおって、舟のことなら俺らあに任せて、ちょっとでもお休みくださいと。

私たちも言うでしょうか。そのことであれば任せてください。この件については信頼してください。つまり、それなら大丈夫。自信がある。

少しこの自信があるということについて整理したいと思います。というのは、自信を持つというのは、必ずしも悪くないことですが、自信は自分を信じて神様を信じてないからいかんという言い方もよく聴くからです。私も言ったことがあります。確かにそうした、神様を信じないで自分を信じる、不遜な自信もあるからです。皆さんもよく耳にされるのじゃないでしょうか。まるで独裁者の煽り文句のような、自分を信じろとか、まるで宗教讃美歌のように自分を信じようと歌う、あれ。だから悪い印象があるのも確かなんですが、英語ではコンフィデンスと言って強く信じるというぐらいの意味です。自分がどうのというのはない。だから自分を信じる自信という意味では、セルフ・コンフィデンスとわざわざセルフ、自分と付け足して言わないといけない。日本では、自信と最初から一語だから、余計に自信と言えば自分を信じるんでしょと思わせるのかもしれません。

でも、自信の自を、自分と解釈せないかん必然性がどれだけあるかなと思うのです。むしろ普段の実態からしたら、自然と信じる、あるいは自ずと信じられる、のほうが自然じゃないでしょうか。例えばお腹ガン減りの時に、今ならラーメンと炒飯いけるという自信。別に自分がどうのとか、意識もしないで、無意識に、OK、大丈夫そうと思うのが、自ずと信じる自信でしょう。

ただし、です。今朝の御言葉もそうですが、自ずと大丈夫だとは思えない、信じられないことが、私たちには起こります。例えば、自分の力では治せない病。自分の力では仲良くやっていけない人間関係。誰の力によってでも避けられない死の問題、そして死後の裁き。この御言葉で言えば、結構強い風程度なら大丈夫と信じられるし、イエス様から舟の操縦を信頼してもらって、寝てもらっても大丈夫なんです。でも突然の風、突風に予想以上にものすごく揺らされて、強い風がとまらないで、全然とまらないで、舟が激しく傾き続けて、予想以上の激しく高い波と激しく大量の水が飛びこんで来て、最初は不安だったのが、怖いという感情に変わる。自ずと大丈夫な自信が飲み込まれ無くなって、自分の力が全く信頼できない範囲のことが私たちには起こる。自分には無理だと思う。何故か。自分の手に負えると信じられないからです。何でもかんでも自分の手に負えるわけではないからです。

なら、です。どういうことなら自分の手に負えると、私たちは信じているのでしょう。実はそこで私たちは間違いやすいのだと思うのです。

これなら自分の力で大丈夫、自分の手に負えるという範囲を間違う。そして、本当は自分の手に負えないのに、負えると思っている命の問題や、人間関係の問題、神様との関係、そして、自分の罪と裁きの問題。ズバリ言うなら、罪と死の問題を、人は自分の手に負えると、間違って思っているだけじゃなく、だから間違って命や人間関係や神様との関係を扱い損ねてしまう。だって人と神様に犯す罪を、また人と神様を愛することを、私たち、本当に負えるのか。負っているのか。負ってない、いや、自分の力では負い切れないのではないか。だからイエス様が来て下さって、神様ご自身が十字架で負って下さったのじゃなかったか。

人は、その造り主であり、またそれ故に裁き主でもある神様との信頼関係に関して、神様を信じているつもり、だから大丈夫なつもりの問題を抱えていると、言い換えることもできるでしょう。

信じているつもり。人間関係でもそうでしょう。この人のことを何があっても愛することができると。恋愛や子供のことは特にそうでしょうか。友情も、何があっても、ずっと友だちって思っても、案外ちょっとしたことで、もう赦せん、絶交。子供たちだけの話ではないでしょう。

神様を信じていると思っていたけど、実は、神様を信じているつもりだったという問題は、それが今朝の御言葉の弟子たちの問題でもあったのですけど、じゃあ、そこで信じていたと思っていたのは、何を信じていたのかが問われるのです。

つまり、自分が操縦できる範囲のことをしている間は、神様も守ってくれているから安心だ、その神様を信じていると思っているのですが、実は、そこで自ずと信じて得ている安心は、このぐらいのことは大丈夫だという自分の力を根拠にした自信だってことはないでしょうか。

もしそうなら、その自分の力を超える、自分の手には負えないことが起こった時に、当然、不安になる。不安になったらいかんというのではありません。当然、不安になると思うのです。

でもそこで神様の力をも確かに信じているのなら、神様、私には無理ですが、あなたには無理ではありませんと、自分の力を超えた範囲で、神様の力を信頼することはできるのです。多くの場合、信仰者は、そうやって自信ゆえの安心もあるんだけど、神様を信じる安心もあるから、範囲を超えたことが起こったら不安になるけど、でも神様を信頼して、大丈夫という信仰体験を味わっているんじゃないでしょうか。

でも本当は、自ずと大丈夫だと信じられる自信があってもなくても、自信とは関係なく信じられるのが、神様を信頼することです。

じゃあそこで、自信がなくなって不安になっても神様を信じている。つもり、じゃなくて、神様を信頼しているって、どういう信頼か。

もし、自分の力を超えた困難に遭って、何で神様は力があるはずなのに守ってくれないのかと、御言葉の弟子たちのように、もし不満になるなら、そこで表に現れてしまったのは、神様を信頼しているのとは別のことではないか。つまり、そこで神様の力は信じているのかもしれません。神様ならできるはずだろうと。力があることは信じている。でも、その神様に文句を言うというのは、この方になら自分をお任せできる、という人格的な信頼がないのではないか。

他の例で言えば、説教を聴く時、この説教者は聖書を説き明かすことができると、説教する力を信じて聴くということが一方にある。でも、そこで説教された神の言葉に自分を委ねて、神様、今この説教を通して語られた御言葉を信じて、あなたに従いますと、今までの自分の生き方や考え方や不安や恐れを、キリストの背中に委ねて、御言葉を信頼することは、ただ力を信じるのとは別のことだからです。

イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか」と問われました。それは、怖がった原因を知りたいのではないでしょう。え~と…溺れ死ぬかもと思って…。そのことなら知っておられるのです。人間が死に対して無力であることは誰よりも知っておられて、だから代わりに死ぬために来られた神様です。十字架の受難の主は、それは知っておられる。だから、「なぜ怖がるのか」に続けて主はこう言われたのです「まだ信じないのか」。つまり、なぜ信頼しないのか。あなたが死なないように、死んでも裁かれないで、罪赦されて生きるために天の父から遣わされた、わたしを信頼してないから、怖がるのじゃないか。それが文句に出てしまっているじゃないか。「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と。

弟子たちが溺れても別にかまんとイエス様が思っていると、本当に、そう思ったのでしょうか。私たちが死んでもかまいやしない、力はあるのに、私のために指一本動かさないのがイエス様だと。疲れきっちょったイエス様は寝耳に水で、信じていると思っていた弟子たちに、死んでもかまわんがですかと言われてショックだったと思います。もとの言葉を直訳すると、もっとよく分かると思います。もとの言葉は「私たちが滅んでもかまわないのですか」。

かまわないはずがないのです。あなたがたは滅んだらいかん!滅んでえいはずがないじゃか、滅んだらいかんき、人には負いきれん罪と裁きを代わりに背負って、代わりに滅ぶために人として来たがじゃないか。わたしはあなたがたをかまう!そのために来た。その神様の愛と救いのご支配が、ここにもう来ているから、信じて受け入れなさいと、ずっと説教しているじゃないか。なぜ信じないのか。ここに、あなたをかまう救い主が、あなたと共にいるじゃないかと、主は言われるのです。

それが私たちの神様です。私たちの信じているつもりを超えて、信頼に値する神様です。この神様の愛も力も、人は自分で信じられる程度に低く見積もって、自分の手に負える信仰で満足をしたいのかもしれません。弟子たちも、もしイエス様が、父よ、風を静めて下さいと祈って風と波が止んだら、これが救い主だと安心してイエス様を信じたかもしれません。でも弟子たちは畏れたのです。この方が風に静まれと命じられたら、風が従ったからです。風を従える方が目の前におられるのです。自分が思う信仰の手に負えん神様が、生きておられる神様だからです。その神様が、だから私たちを負って下さいます。手に負えるつもりで、一向に負えない罪の嵐に沈められてしまいそうな私たちを、キリストが負って下さる。だから救われます。この神様を、だから信頼するのです。