マルコによる福音書4章26-34節、詩編115篇「神様を求める心には」

19/3/24受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書4章26-34節、詩編115篇

「神様を求める心には」

神の国はこういうもんだと、イエス様は二つの譬えを話されました。言い換えれば神の国のイメージを、あ、そういうことかと、自分のこととして掴むために話されたのですが、そもそも、神の国とは何か。

改めて言いますが、イエス様がおっしゃる神の国は、神様の愛と救いのご支配のことです。国を支配と言ったほうが分かり易いでしょう。

死んだら行くと何故だか考えられている天国のことではありません。先に祈った主の祈りでは、御国、神の国は来るのです。御国に行かせてもらえるよう祈りなさいと、主から教えられてはおりません。もし死後の国が、神の国のイメージだったら、今朝の特に最初の譬えは、私たちが寝起きしている内に、知らぬ間にその国が成長して、実が熟すると鎌を入れるって、何か死神が来て、はい時間が来ました~言うてサクッと命を刈られているような真逆の話になってしまいます。

イエス様がおっしゃった神の国、イエス様が、ここに入りなさいと、私たちを招いて下さっている神様の愛と救いのご支配は、むしろ私たちのもとに来るのです。神様が人となられて来られて、私たちの罪を全部引き受けて十字架で償って下さったことで、その救いのご支配は決定的な形で、もう来ています。キリストにより、またキリストの内に、神の国は来たと、ハッキリ言ってよいのです。そして、そのご支配のもとに私たちが入るために、御言葉が語られる。それが種蒔きです。それは、さあ、ここに救いがある、と色々な形でアピールがされるのだとも言えるでしょうか。その御言葉が私たちの耳から入って、心に、あ、これは神様の言葉だ、神様が私に言っておられるんだと聴いて、はいと応える所に、神の国は来ているのです。ここにも!

でもそこで、私は、はいと応えているだろうか?言われていることを理解はして、そうだなとは思っても、はいと神様に応えているのかな?私は神様を信じているのかな、どうなのかと、曖昧でスッキリしないということは、よくあるのです。だから最初の譬えをイエス様はなさったのですし、じゃあ、神様との曖昧な関わり方は止めて、関係をハッキリさせましょうと、主が用意して下さった洗礼も受けるのです。

先週の木金と行われました高校生・青年の春の献身修養会でも、同じことを実は少し思っているという高校生たちと話をしました。教会付属の保育園に入ったのがきっかけで、教会学校にも行くようになった学生や、教会学校には行かなかったけど、ミッションスクールに入ったら、礼拝出席の宿題が出て、じゃあ保育園の教会に行こうと戻って来た学生がこう言うのです。他のミッションスクールの学生は夏休みに礼拝出席する宿題が出た時しか教会に行かない。でも私は教会の人たちが好きでよく来ている。一人ではあまり祈らないけど、礼拝や中高生会で一緒にアーメンって神様に祈る。あれ?じゃあ私はクリスチャンなんやろか。クリスチャンのやることやってるし。でもどっからクリスチャンになるんやろ。一人で神様に祈ったり、自分は他の宗教じゃなくキリスト教を信じていますと言えるようになったら、なるんやろかって考えることが実はある、と言うのです。

その子たちに、こう答えました。私たちは、キリスト教という宗教を信じているんじゃなくて、キリストを信じて、イエス様ありがとうございますと、神様と信頼関係を持っているのがキリスト者。だから宗教は信じてないんだよと言いましたら、その高校生たちが一斉にハッとした顔で、修養会の栞にメモっていました。別に後で試験すると言ったわけではありません(笑)。なのに真剣な顔になって、宗教を信じているのではないとメモしたのは、これがキリストを信じる信仰にとって、よほど大事な急所だと、自分のこととして聴いたからでしょう。

それを今朝の御言葉で言えば「聞く力」を持っていたということだと思います。単なる理解力ではありません。自分でもハッキリしないまま神様を求める思いが、これだ!と反応したと言ったらよいでしょうか。聞く耳があった、と言ってもよいのです。

そういうの、私たちにもないでしょうか。わかっているはずなのに、自分ではうまく言えないばかりか、むしろ反対のことを言ったりする。神様との関係ではなくて、宗教的なあれこれをしているから、自分はクリスチャンだとか、ほとんどクリスチャンだとか、祈りや礼拝や献金や宗教的なあれこれができてないから自分はダメなクリスチャンだとか、もうクリスチャンやめようとか。自分の目に見えている宗教的な行いに振り回される、曖昧な信仰生活に、実は少し悩むってことが、もしあるとしたら、そこに私たちが見ているのは、神様のご支配ではない、自分の宗教的支配です。私たちは神様との関係なしでも行える、お一人様の宗教を、やってしまえるからです。律法学者やファリサイ派の人々を、イエス様が偽善者と呼んで悔い改めを求められたことを思い出したら、わかりやすいでしょうか。あるいは、神様との関係に生きている人を、立派だなって、その人だけ見て、その人を生かしている神様との関係を見ないということもある。そしたら、神様はそこに神の国を見ておられても、人はそれを人間の人間による人間のための宗教として見ている、ということは起こるのです。

でも幸いなことに、神様がくださった、それ故に私たちが信じているのは、宗教じゃなく生きておられる神様です。あなた、と呼んで語りかけて下さる神様です。その神様に、私たちも、あなたのご支配、御国を来たらせて下さいと求め祈ります。その私たちが、神様の御言葉を聴いて、アーメン、その通りですと、信仰に生きるようになる。つまり信頼関係に生きるようになる。そこに来ているのが、神の国です。

その神様のご支配は、神様にはハッキリ見えているのですけど、人には、見えない。本当は、全く見えないわけじゃないけど、ハッキリ目に見える実績を求める罪深い人間の目には、隠されていると言ったほうがよいかもしれません。福音の種を蒔いて、キリストの愛に従って隣人や家族を愛しても、もし期待する反応がなかったら、ああ、何にもならんかったと思いがちです。芽は出なかったと。本当は隠されているのかもしれんのに、もっと愛せばいいのに、愛することをやめてしまったり、自分が傷つくのが嫌で距離を取ったり。

神様のご支配が、人間の目に、一目瞭然かと言うと、そうではない。からし種の譬えで言えば、それは見えるんですよ。例えば、洗礼を受けた兄弟姉妹が成長しているのを見て、あの蒔かれた種が、こんなに大きくなってと、その方と神様との愛の関係が成長しているのを見るのは、この上ない喜びです。天の父の子として、また主の僕として成長して、用いられ、そこに神様のご支配が成長しているのは、見えるのです。

でも、いつ種が芽を出すかという意味では、見えない。見える部分もあるけど、隠されて見えなくて、だからこそ神様を信じるしかない部分もある。むしろそのほうが多いでしょう。

また、人間の目に見えることが、そのまま神様の目に見えていることだという保証も、人間にはできんのです。自分には見えているつもり、という問題があることは、先週の御言葉で教えられたことでもあったのです。御言葉のともし火が与えられても、御言葉に従って判断するのでなく、自分の判断で、これは神の業で、あれは違うとか見ているなら、それは、ともし火をベッドの下に隠すのと一緒で、本当は見えてない。私たちの目に見えていることが、そのまま神様の目に見えていることかどうかという保証は、それを御言葉によって教えて下さる神様の御前に畏れ謙り礼拝する態度で、御言葉を信じ受け取る以外にはないのです。イエス様がなさった譬えの順番からしても、基本的には隠されていて、ここで常に一番大切なのは、御言葉を信じる信頼関係だということを、わきまえていなさいということでしょう。

特に、私たちが誰かにキリストの福音の種を蒔いて、それがどのように芽吹いて、救いの実が結ばれるか、その人が救われるかは、見えんのです。それを見えているつもりになっていると、見えていると思っている自分の傲慢に足をすくわれてしまいます。この人は絶対信じるとか、逆に、この人は信じないと、声をかけ愛することを諦めてしまうのも、自分の目に見えていることに支配されて、キリストのご支配を信じない宗教をやっているからじゃないでしょうか。もしそうなら、その私たちに語られる主の御言葉があるのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。…見ないのに信じる者は幸いである」(ヨハネ20:27f)と復活の主は、語りかけて下さっているのです。

先ほど先週の献身修養会での話をしましたが、その夜に行われた賛美と証のプログラムの中で、ある姉妹が証をしてくれました。姉妹は幼児洗礼を受けて、2017年のクリスマスに信仰告白をした。教会の皆喜んでくれ、自分も嬉しかったが、ある礼拝で牧師が、自分は信仰告白の時、神の声を聴いたと説教したのを聴き、私の信仰告白には決定的な何かが欠けていて、本当は私には信仰がないんじゃないか。皆に嘘をついたんじゃないか。私は神様に愛されてないんじゃないかと思い始め、数か月礼拝に行けなくなった。でも教区の中高生キャンプ仲間と電話で話したら、大丈夫だよ、牧師である父も叔父も同じことで悩んだけど、大丈夫だったと言ってたよと聴いて、ほっとした。そして、こんなことで苦しんだ自分が間抜けに思えた。悩まなくていいことで悩んで本当に無駄な苦しみだったと思った…けど、待てよと。神様が意味もなく試練に遭わすことはないからと思い出し、そうか、きっとこれは今まで信仰の悩みとか苦しみとかないまま、すんなり信仰告白をした自分にとって必要な悩み、私が通るべき道だったんだと思い、神様、こうやって私を導いて下さってありがとうございますと感謝したという証をしてくれました。その夜、そこには、私も信仰告白しようか、でも決定的な何かがないしと悩んでいた青年たちが複数いて、でも、そんなこと姉妹も、姉妹に証を頼んだ私も知りませんでした。すべて、隠されていました。私たちには、です。それでも大丈夫です。隠されてはいるけど、そこに生きて働かれるキリストの救いのご支配を信頼して、委ねて歩めば良いのです。