18/7/29主日朝礼拝説教@高知東教会
ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節、詩編89篇20-38節
「新しく自分を造り直す」
三位一体の聖霊様が結ばれる実の、三度目の説き明かしとなります。今朝は最後の三つ「誠実、柔和、節制」。これを説き明かします。
まず「誠実」と訳された、もとの言葉は、新約聖書で「信仰」と訳されることの多い言葉です。信じることと誠実であることは無関係ではないのです。十字架の神様を信じることと、十字架の神様を信じるが故に誠実であること、つまり、他の人から、この人は嘘がない、信頼できると信じられることは一つのことだと言うのです。
信仰と誠実は、表裏一体である。あるいは、キリストを信じることにおいて、この人には裏表がないと証がされる。それがキリストを信じるということだ。そこには誠実さが証されるんだとも言えます。
裏を返すと、あれ?私は誠実でなくなっている、と感じる時、それはイエス様から、あなたはわたしを信頼しているんじゃなくて、自分の力を信じているんじゃないか?また、自分は信じちゅうのに、何で信じた通りにならんと、わたしを信じているのではなくて、自分が信じちゅうことはなるはずだという法則を、信じてるんじゃないか?つまり勝手な律法主義になっているんじゃないか?ということを、イエス様から教えられている時じゃないかと思うのです。
信じると言っても、昔から日本人がうまく言い表してきたように、鰯の頭も信心からというのが確かにある。相手の人格とか、その相手との関係とかは文字通り関係なくて、ただ一方的に自分が信じているだけ。ほいで、もし信じている通りにならんかったら、一方的に腹を立てる。そこでは神様の人格と言葉を信頼して、この方は裏切らないと信頼して信じる、神様を信じて、神様に自分を委ねてしまうという聖書の教える信仰とは別のことをやっているのです。そういう信じるを、人間はしてしまう。それは、キリスト者も無関係ではありません。
十字架の神様の言葉を聴いて、この方は私を裏切らないと信頼する。その信頼から、人からも信頼され得る誠実な生き方や態度が生まれる。この信じることと信じられることの関係は、イエス様が言われた、神様から赦されることと、人を赦すことの関係に大変よく似ています。
あるいは、裏返して言ったほうが、わかりよいでしょうか。つまり、もし自分は誠実でなくてもかまん、人から信頼されなくてかまんと言うなら、それは自分は私に罪を犯した人を赦さなくてもかまんという態度と、よく似ているのです。そこで両者に共通するのは「隣人を自分のように愛しなさい」と求められる神様に、どう向き合っているか、という問題です。神様との関係に対する私の態度が、隣人との関係に対する私の態度において、現れ出てくるのです。
これはイエス様が、この関係の問題を、私たちが決して忘れんよう、蔑にしないようにと、主の祈りの中にも含められて、人の罪を赦さないなら、天の父もあなたの罪を赦さないけど、本当にそれでよいのかと、それであなたは生きて行けるのかと、真正面から、私たちが生きるとはどういうことかを教えられ、またそこに身を投げ出して下さった、信仰の根幹、また神様から与えられた命の根幹にある急所です。
人は赦されなければ、生きていけんのです。それが、自分のことだとわかったら、人は洗礼を受けずにはおれんなるのです。赦されなくても自分は問題なく生きて行ける、大丈夫と思っていたのが、私には赦しが必要だ。この罪の私は神様に赦してもらわないといけない、ごめんなさいと、神様に向く時、十字架のイエス様の償いが、私のための償いだとわかって、イエス様を私の救い主と信じる時、その時そこで救われて、新しくなるのは、私と神様との関係だけじゃない。私と隣人との関係もまた新しくなる。単に私がその人をどう思うか、から救われるとも言えるでしょうか。だって私が、自分にはイエス様など必要ないと信じていたのは、それは嘘だったとわかったのです。私は神様から死ぬほど大切にされていると知って、信じて、洗礼を受けたのです。私にはイエス様が必要です、十字架の赦しが必要ですと。でもそれは私のことだけで、他の人には関係のないことなのでしょうか。そんな神様は鰯の頭、嘘の神様でしょう。イエス様に背負われて死なれてない人はおらんのです。それは、赦されなかったら、人もそう、赦されなかったら、怒りのもとにありつづけたら、共に生きていくことはできんからです。聖なる神様との関係も同じです。永遠の命、死んでも神様と共に生きる命は、怒りが十字架で背負われて、あなたの罪は赦されたと、イエス様から赦しの言葉を聴くところにあるからです。そしてその赦しの言葉を、私に必要な言葉だと信じて聴く者は、我らに罪を犯す者もまた、赦されなければならないと、ただ、イエス様の前でのみ知るのです。イエス様を信じる以外のところではない。イエス様を信じるから赦すし、苦しみながらも愛することを選ぼうとする。イエス様の名を呼んで、そうする。そこに現れる誠実は、信仰を通して、聖霊様が結ぶ実以外ではないでしょう。
次に記される「柔和」も、このイエス様を信じる信仰の柔和以外ではありません。お聴き下さればと思いますが、マタイによる福音書11章に有名なイエス様の招きがあります。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
イエス様が、わたしは柔和だから、これを学びなさい、これを一緒に自分のものとして歩んで行こう、そしたら重荷が重荷でなくなるからと招かれた、この柔和です。単なる生まれついての人間の性格ではない。むしろ、そうでない性格でも、わたしに学びなさいと招かれるイエス様の言葉を信じるところに生まれる柔らかさと言えるでしょうか。
それは、人を受け入れられる柔らかさでもあります。寛容の説き明かしでも申しましたが、受け入れることが、痛みを受け入れることになる時もあります。それでも受け入れるのは何故か。キリストが、そこまで受け入れて下さったこと、共に生きようと招いておられるのを、自分のこととして信じて、その招きに生きるからでしょう。
赦されたから、そうだ、赦すんだと思える。痛みがあっても。それも一緒に、その人を受けとめようと思えるようになるのは、そこに霊の実が結ばれて、キリストの柔らかさが現れ、証されているからです。
最後の「節制」。別の訳では自制、英語でセルフコントロール、自分を制御すること、言い換えれば、自分自分という肉の衝動に流されない。つまり節制、自制とは、自分を捨てるということです。
イエス様が、わたしに従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を負って、わたしについてきなさい、と招かれた。そのキリストに、はい、とついていく。それなしの、キリスト抜きの自制ではありません。人は、自分で自分をコントロールできるはずだと考えるのですけど、できん。そこで色々のせいにするのですけど、それをキリストを信じて捨てるのです。
本屋で立ち読みをしておりましたら、ある著名な精神科医師が、近頃そのクリニックを訪れる方で、私はこれこれができないのだが、それは私に障害があるからじゃないかと言う。で、診断すると、障害には該当しない。それでその診断結果を告げると、いやそんなはずはない、自分がこれこれの問題を解決できないのは自分に障害があるからだ、そう言って下さいと願われる方が増えている、と書いていました。その方々に共通するのは、完璧主義で、自分の弱さを認められない傾向があることだそうです。それで、本を読んだり勉強をして、その、できない弱さを、まあ他の人のせいにするよりはいいのかもしれませんが、これは自分に障害があるからだと、それを医者から診断してもらったら安心できる。なら、その医師はどうするかと言うと、いいんですよ、できないことがあっても、完璧じゃなくてもと、アドバイスされるそうです。
誰だって問題はあります。でもそれを誰かのせいにするのでも、何かのせいにするのでもない、キリストを信じて責めない道が、十字架の光のもとにはあるのです。キリストがあなたを責めないから、自分も自分を責めなくて良いし、もし人から責められても、そこで自己主張したい自分を柔和に自制して、その通りですねと、そこでその責めを受け止めながらも、その責めに支配されないで、その責めを一緒に負って下さるキリストの恵みのご支配に、身をお委ねする道があるのです。
そこでキリストの恵みに身を委ねて信じるというのは、自分が思い通りになることではありません。すぐに自分が変わらなくても、何も変わってなくても、悪くなっているじゃないかと思ってさえ、そこで、その重荷を負われる、キリストを信じるということです。キリストが信頼に足るから。誠実だからです。十字架で私の全てを受け入れてくださったキリストの言葉なら、信じることができるからです。
そのキリストが、自分を捨てて、ついてきなさい、と招かれるから、変わらない自分を捨てるのです。捨てたら変わるからじゃありません。変わらない自分を、キリストに負ってもらって、キリストの解決に身を委ねて、変わらない痛みを負いながらも、その痛みを、キリストを信じるが故の誠実な痛み、信仰の痛みとして、キリストに一緒に負って頂いて、そこに立ち続ける時、そこで聖霊様が、その痛みをさえ、十字架のキリストの誠実が現れる、霊の実として結んで下さるのです。変わらない痛みの中で、キリストが立ち現れて下さるのです。
そのキリストを信じて、誠実に生きればよい。柔和なキリスト信仰に生きれば良い。逃げないで。人のせいにも、自分のせいにもしないで、キリストが、わたしのせいにしていいから、誰も責めないで、その弱さを負って生きて行こう、その弱さが、あなたを強くするから、人と共に弱さを負って生きて行ける、愛の強さに、救いの強さに導かれるから、さあ、わたしについてきなさいと招いておられる。
そのキリストについていく道に、霊の実と救いとが結ばれるのです。