18/7/22主日朝礼拝説教@高知東教会
ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節、出エジプト34章4-9節
「あなたにもスマイルを」
霊の結ぶ実。三位一体の聖霊様が私たちを通して結ばれる実のうち、今朝は四つ目からの一ブロック「寛容、親切、善意」、この説き明かしをいたします。
寛容、親切、善意。何かとってもいい人のイメージじゃないでしょうか。心が広くて、優しくて、その生き方を見ていると心地よい。まあ、寛容、親切、善意を、言い換えただけなんですが、善意というのだけ、一言では言い換えにくかったです。
類語辞典で調べても、優しさとか思いやりとか、先の親切とか寛容と重なってくるので、日本語だと、ちょっと言い換えにくい。もともとのニュアンスで言うと、善悪の善です。悪ではなく善と、光と闇みたいに比較で言うイメージがわかりよいかもしれません。英語で言うとgoodです。また聖書で言うと、神様が世界を創造された時、その一つ一つのお造りになられたものをご覧になって、良し、英語でgoodと言われた。若者の言葉に翻訳すると、いいね!でしょうか。因みにあの、いいねボタン、英語では好きという意味のlikeボタンと言うそうですが、それも含めての、いいね!という言葉のニュアンスは、聖書のニュアンスに案外近いと思います。まだ人が罪に堕ちる前、造り主である神様との関係が破れる前、それは関係がおかしくなる前の親しい人間関係のように、良かったのです。神様は、その心地よい喜びを宣言されて、good、良しと、造り主なる神様との関係の中で、世界を祝福されたのです。
それが今朝の御言葉が言う「善意」と訳された言葉です。善とは相手を祝福することだと言ってもよい。そこに良い関係があり、そこで相手は祝福されてしまうのです。
先の寛容と親切と一緒に考えるとわかりよいのですが、相手がいない寛容というのも、また相手のない親切、優しさというのもない。相手が必要です。善意もそう。お一人様の善意というのはない。あるいはそれをイメージできたとして、それ、厄介な善意じゃないでしょうか。
善意の塊という言葉もありますが、一方で善意の押しつけという言葉もある。私たち自身は、大丈夫でしょうか。ある人から見たら善意の塊のような人が、別の人からは善意の押しつけに思える。同じことをしていても、いいねボタンを押してもらえるか、それとも親指が下向いている、やだねボタンと言うらしいですが、やだねの評価をされるかは、人によって違うのです。いや、ボタンなんて押さなくても、私たち、そうやって、これは善い、あれは悪いという善悪の評価を、互いに自分らの好き嫌いの判断によって、くだしているんじゃないでしょうか。
あるいは何でも善悪で、白か黒かという評価をくだすのは、何だか心が広くない、不寛容で、心が狭く思えるし、そんな全部が全部善か悪かで考えられるほど、世の中単純じゃないだろうと考えることもあるでしょう。で、悪と言う代わりに、やだね、という感情で表現することが最近は一般的になっているのかもしれません。善か悪かはわからんけど、感情の判断のみで、私は嫌、私は好きと。
しかし聖書は、やはり善という言葉を用いるのです。言い換えれば、善悪にこだわるのです。それは私たちにもまた善にこだわって欲しい、そして聖霊様の実である善を、生活の中で結んで欲しいからです。
無論、寛容と親切も一緒に、です。それらは、先週も申しましたが、切り離すことはできません。聖霊様が結ばれる実は、イエス様を出所としておって、これら一つ一つは、イエス様のご人格の現れでもありますから、それをバラバラに考えるのは、イエス様をバラバラにすることと同じです。イエス様を映し出す実が、私たちを通して、聖霊様によって結ばれる。それが聖霊様の実です。
ですので、善意には溢れていても、心が狭くて不寛容だというのは、そこに聖霊様の実は結ばれてないのです。善意はあっても、という善意も、それが誰の判断する善なのかが、そこで問われるのです。イエス様のご人格に現れる、人を祝福する神様の善なのか。自分が判断する善であるのか。そこが急所です。
改めて申しますが、今朝の御言葉で、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などが、ここに記されていますのは、これらが私たちの生活の中で結ばれることを、主が求めておられるからです。そこで改めて問いたいのは、私たちが生活の中で、これらの実を結ぶことを、求めているかということ、あるいは、もしかして、あきらめてないかということです。何故なら主は、これらの実を私たちに求めておられるだけではなくて、これらを結ぶと、三位一体の聖霊様が、あなたの内に、また、あなたを通して、この実を結ぶから、あなたが自分の力で結ぶのでは決してないから、あきらめないで、あなたはわたしを信じるか、と具体的に問うておられるのが、この御言葉であるからです。
この説教の準備は、いつも以上に辛いものでした。生活がいつも以上に問われるからです。私の生活がです。少し頭をよぎりました。家族がこの説教を聴くがよねゃと。かと言って、はぐらかすような説教はできないという思いがあるし、説教前だけ、自分の心の狭さ故の不機嫌さを悔い改めて赦しを乞うのも、間に合わせの偽善に思えて、ようせんし。結局、暗い顔をしながら家族が寝静まっても説教に取り組んでいましたが、最初から本当はわかっておるのです。それが人前では、わからなくなってしまうのか、混乱しやすくなってしまうのか、でも本当に大切なことは、本当に必要なことは、人の評価ではない。それが家族であっても、人からどう評価されようと、どう思われようと、その評価が正しくても間違っていても、確かに悔い改めなければならないことがあっても尚、そこで、真っ先に、なくてはならないことは唯一つ、その具体的な生活の闇の中で、光の主が、御言葉を語って下さっていること、そしてイエス様が、わたしを信じなさい、わたしがあなたをそこから救い出すと、御言葉によって約束して下さっていることを信じること。信じて、その救いを御霊によって実現される、イエス様のお名前を呼ぶことなのです。
寛容、親切、善意。これはイエス様です。聖書に記された、これらの字を見ながら、イエス様と呼べば、そこにイエス様の寛容が見えてくるんじゃないでしょうか。あるいは聖書をそこまで読んでないなら、ぜひイエス様の寛容を求めて、親切を求めて、善意を求めて、聖書を読んで頂きたい。人から罪人と呼ばれ、人から怒られ嫌われて当然の人々を、イエス様から探し求めて、愛し、受け止めてくださった。その罪を責めなかった。そのイエス様の寛容、親切、善意を御言葉に探し求めて読んで頂きたい。幾つもあります。何人もおります。その一人が、あなたであり、私だと示されるところで、聖書の寛容とは何であるかが、わかるのです。
怒られなかった。怒られて当然だったのに。また、責められなかったのです。自分で自分を責めていたのに。あなたの罪は赦されたと言ってくださったのです。罪を無視するんじゃなくて、罪なんかじゃないと嘘で誤魔化すのでもなくて、イエス様は私たちの罪の責任を引き受けて、ご自分が父なる神様の怒りを身に受けて、我が神、我が神、どうしてわたしをお捨てになったのですかと祈るほど、耐えられないほどの怒りと責めを受けて、イエス様は、私たちの代わりに十字架で裁かれて死なれたのです。それは私たちがその代わり、本当に神様から見捨てられないで、罪と裁きから救われるためであったから、そこに三位一体の永遠の御子は、本当に命を投げ出されたから、だから、イエス様は私たちを、責めないのです。それでも人を責めるのは、そのことで自分が何をしているのか、わかってないからです。責めは、十字架で終わったのです。全て終わったとイエス様が大声で叫ばれた時、終わったのです。
だから私たちも、そのイエス様のお名前を呼んだら、もう人を責めなくてよい。私を責めないで死なれたイエス様のお顔を求めたら、自分も責めなくてよいのです。イエス様が、もう終わったきと言って、慰めてくださるからです。
それで苦しみが終わるということは、稀かもしれません。罪故の痛みや苦しみが、私たちを苦しめて、責めたくなることはあると思います。どうしても責めてしまうのだと思います。
それが故にでしょう。寛容と訳されたもとの言葉は、苦しむ、という言葉です。英語でlongsuffering長く苦しむとさえ訳される言葉です。ですから御言葉がイエス様によって指し示す寛容は、人に甘いとか、罪に甘いという態度では決してありません。甘いどころか、罪に対して、悪に対して、いかんものはいかんと、どうにも曲らん真っ直ぐな厳しさを持っているのが、聖書の寛容です。罪故の苦しみと痛みを知っているからです。でもその痛みを、イエス様が一緒に負っていて下さるから、十字架の優しさを知っているから、イエス様の名によって耐えられる。受け止めて、相手に優しくさえできるのは、それが聖霊様によって結ばれる十字架の神様の優しさだからです。神様が、その実を結ぶことを、望んでおられます。そして、これら霊の実を望む私たち、御霊の導きに従う私たちを通して、救い主、十字架の主を映し出す霊の実を結ばれるのです。
それを私たちが望むこと自体、既に聖霊様の御業です。違うでしょうか。そこまで受け入れられ、そこまで神様に愛されている。その福音を信じて全ては始まったのです。主の御名を呼んで、最後まで、その福音を、信じて共に歩むのです。