ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節、イザヤ書48章17-19節「共に味わう愛・喜び・平和」

18/7/15主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節、イザヤ書48章17-19節

「共に味わう愛・喜び・平和」

これらを禁じる掟はありません。そうですね。むしろこれらこそ掟、主の律法が目指している人格の実です。

では、どうやって、これらの素晴らしい実を私たちは結ぶことができるか。そこが一番の急所です。これについてはイエス様が大変有名な話をされましたので、先ずそこを開きます。今の頁に栞や週報を挟んで、新約聖書の198頁、ヨハネによる福音書15章4-5節をお開き頂けますでしょうか。198頁、下の段、15章4-5節をお読みします。

「わたしにつながっていなさい。…わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(4-5節)

ぶどうの枝は、それ自体では実を結ぶことができない。良くわかる話だと思いますが、私たちもそう。私たち自身の力では、先に読みました実を結ぶことは、できない。

そこで今朝の御言葉に戻って頂きますと、実にもうハッキリそう書いてある。これらの実は、霊の結ぶ実だと。三位一体の聖霊様が私たちを通して結ばれる、聖霊様の実だから、単に人間が人間だけで終始して愛とか喜びとか言っているのとは全く違う。それを説き明かします。

ではこれらの実、どうやって結ぶのか。人間が人間だけでは結べんのに。聖書は無茶言っているのか。答えは1枚前の頁16節にありました。「霊の導きに従って歩みなさい」。そうすれば、これらの霊の実が結ばれる、という展開なのです。私たちの内に住まわれる聖霊様が、聖霊様の導きに従う私たちの内に、また私たちを通して実を結ばれる。もう結びたくて結びたくて、ね、結ぼうや、と今も導いておられるのです。

具体的には、聖霊様は私たちの手を用いて、愛を結んで下さいます。私たちの足を用いて、あの人のところへと導いて、喜びを結ばれ、また私たちの口を用いて、平和を結んで下さいます。そしてその全てにおいて、聖霊様は私たちの心を用いられます。導きに従うという心をです。

従うという心。これを少し考えます。皆さんの日常において、従うってことは、当たり前のことでしょうか?そこで人のことを考えるのか、自分のことを考えるのかで、態度は違ってくると思いますが、そもそも従うということには、従う態度というのがあるでしょう。どういう態度を皆さんイメージするでしょうか。私はキリスト者になる前は、尾崎豊の「従うとは負けることと言い聞かせた」という反抗期っぽいイメージで、つまらん勝ち負けのイメージで考えておりました。けれど同時に、侍が殿に仕える潔い忠義のイメージも若い頃から好きでして、良く考えたら、それも従うということでしょう。そこには仕える態度、あるいは仕える姿勢がある。卑屈な態度でしょうか。下から睨みながら、何で私が、という態度では決してない。逆にあごを突き出すようにして、俺は従いゆうぜ(笑)。従う姿勢じゃないですね。心の姿勢がおかしい。

むしろ最初から、聖書のイメージに従って、こうイメージすれば良かったんじゃないか。従うとは、その相手を愛するというイメージ、相手を自分のように大切にする態度がそこにあるのだと。

聖霊様も、私たちをどこに導いておられるかと言ったら、愛する態度へと、愛へと導いておられる。それ以外のところに、聖霊様が人を導くことはありません。私は従いゆうで、という傲慢な態度へと導いたりは決してされない。愛に導かれる。神様の愛のもとに。こんなにも愛されているでしょう、じゃあ、その愛に生きましょうと。愛され、愛する、神は愛という命に生きようと。その導きに、はい、と従うところで、霊の実を、聖霊様が結ばれるからです。

聖霊様も、イエス様も、天の父も、三位一体の神様に私たちが従う、神様を愛する態度で一緒にいる時、どんなお気持ちでしょう。人間関係で考えたらわかり良いと思います。私の愛する人が、私のことを信じてくれる。もうそれだけで幸せですよ。愛して笑ってくれる、それだけで生きていて良かったと思う。神様は違うんでしょうか。

逆に、これも人間関係で考えますが、相手がどれほど正しい行いや、これしてね、と言ったことをしてくれても、嫌々やったり、義務という態度でやられたら、そこに行いはあっても、愛の態度、相手との関係を大切にする態度がなかったら、有名なコリント書の愛の賛歌で言われているのと同じです。愛がなければ無に等しい。その行いは無益だ、そんな行いなど欲しくないと主は言われるのです。

その名を愛と呼ばれる神様は、私たちの心を求められるからです。

前にも申しましたが、無論、行いは大事です。でも、もっと重要なのは、どんな関係を神様と持っているかです。具体的に言えば、私たち、神様に向き合って、対話していますか。これもイメージかもしれませんが、遠くから何か言うんじゃなく、近づいて話しかける。祈るのです。相手を信じ、愛しているから近づける。近づきたくなる。天の父に向かって、アバ父、お父さんと呼んで祈るよう導かれる聖霊様は、近づいて祈るように、導かれます。愛の行いは、義務じゃない愛の行いは、そこから生まれる。そこでは態度が変わるからです。そこにもう、仕える愛が、もう実っていて、主はその実りを味わっておられるでしょう。

そして、仕えます、お捧げします、の愛があるところ、自由の喜びが湧いてくるのを私たちもまた味わうと思います。だって自分のこだわりという肉の束縛から自由にされた解放感!あれ?あの俺は俺はの窮屈さから、ふわっと軽くなっていて、自分のこだわりなんて捧げてしまったあの解放感は、じわじわ湧いてくる喜びですよ。コリントの信徒への手紙二の3章で「主の霊のおられるところに自由があります」(17節)と言われているのは、そういう時、アーメン!と本当思います。霊の実が結ばれているんだな思う。

聖書の喜びは、奴隷の生き方や態度から自由にされた喜びのイメージが多いのです。この後に唱和する十戒で、主が「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と宣言されるとき、そこにもう喜びへの招きがあるでしょう。自分自身の奴隷ではもはやない。荒野を歩む民が、色んな不平や不満を言って奴隷根性で歩むような時が私たちにもあるでしょうけど、でもそこで、十字架の主に向かって、ごめんなさい、あなたが主です!助けて下さい、主よ、と祈り向き合うところに、ああ、私が主じゃなかったと、静かに喜びが湧いてきます。自分を捨てられさえする。

もう一つの「平和」もまた、主のものとされた平安と言ってよいでしょう。私が私の人生の主だという態度で、人に勝とうとしたり、主から何か勝ち取ろうとする愚かな争いを、もうしなくてよくなったのです。十字架の主が、私の主となってくださったのです。主ご自身が、わたしは決してあなたを見捨てず、あなたを見放すことはない、あなたはわたしのものだと、永遠の愛の絆を、神様が!宣言されているからです。

この神様との関係。恵みによって、信頼関係として結ばれた神様との関係が、具体的な生活の中で、アーメン、そうながよねと味わえるのが聖霊様の結ばれる実です。

最後に、この霊の実を、更にもう一つのイメージで説き明かします。実と訳された言葉。単数です。先にぶどうの木の話をしておいて何ですが、リンゴのほうがわかりよいでしょうか(笑)。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和…」と幾つもあるようですが、一つの実。言ってみればリンゴをどの角度から切っても、見た目こそ違えど、リンゴはリンゴ。

ですから、霊の実を考える時、愛の実を結ばな、喜びがないから喜びの実を…そういうんじゃない。それやっていると、例えばよく言われる喜びの律法主義、喜ばな、いつも喜ばな…という、奴隷のような生き方になってしまいます。おさらいしますが、霊の実である喜びは、聖霊様が結ぶ実の一側面です。一断面図と言ってもよいでしょうか。愛も喜びも平和も、後全部、統合された一つの実なのです。統合的である。何故なら、これら全てが人格的だからです。分かりやすく言えば、私のどこを断面で切っても、物騒ですが(笑)、野口幸生です。耳は火星人、鼻はジラーモとかない(笑)。聖霊様の結ぶ実も、聖霊様のご人格がバラバラとか、ないですから。愛、喜び、平和…今日は最初の三つに絞りますけど、どれを取っても、三位一体の神様のご人格がそこに見える。もっと分かりやすく言うと、ここに見えるのはイエス様です。イエス様の人格が結ぶ実を、聖霊様が私たちの内に、また私たちを通して結ばれます。何故なら、この手紙全体の中心、急所の御言葉をおさらいしますけど、キリストが私の内に生きておられる。キリスト我が内に在りて生くるなり。2章20節。だからです。

そのキリストが、イエス様を信じ、洗礼を受け、聖霊様を受けて神の子とされた私たちの内に、聖霊様によって生きておられて、住まわれている。その私たちの内におられるキリストが、じゃずっと隠されたままなのか。そうではないのです。主キリストは、聖霊様によって私たちを導かれ、わたしについて来なさい、こっちだと招かれて、その招きに、はいと応えてお従いする私たちを通して、ご自身の人格的な実を結ばれるからです。

最初に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主の御言葉を聴きましたが、本当にキリストから、命が流れ伝わり通ってきて、実が結ばれるのです。キリストにお従いする私たちの心から、手から、足から、あらゆる部分、生き方、生活の全ての断面のどこを開いても、そこにキリストの愛が流れ、救いの喜びが毛細血管を伝わって、だって、この体の救われない贖われてない復活しない部分がありますか?そのように、主にお従いする私たちの生活の全ての部分において、その人格から流れ出る言葉や表情や行動や涙、全てが!キリストの言葉や表情や行動や涙のように、キリストが証される霊の実として聖霊様によって用いられるのです。主の招き、導きに、はいと従う僕を通して、主は御自身の救いの御業を、前進させてくださるからです。

そこに教会が、キリストの体と呼ばれる所以もあります。ここには、主が生きておられる。そして私たちを用いて、世を救われるのです。