17/11/26朝礼拝説教@高知東教会
ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節、エゼキエル書36章25-28節
「死んだから生きられる」
新しい自分になって生きていきたい。昔の自分、今までの自分を過去の自分として、過去の記憶を振り返るようにして、ああ、あんなこともあったなあとか、あんな思いしよったなと、罪の記憶さえ、過ぎたこととして、新しい自分として生きていきたい。そんな願いが、本当に現実となることってあるのか。あると聖書は私たちに告げます。それが今、共に聴きました聖書の御言葉です。
「わたしは…信仰によるものです。」(19-20節)
前後の文脈なく、ここだけ聴きますと、私は神に対して生きるために死んだとか、キリストと共に十字架に付けられているとか、内容がよくわからんと、ちょっと物騒に聞こえる言葉かもしれません。でも要するに、ここでキリストの使徒パウロが言うておりますのは、新しい自分となって生きるということなのです。それは先ず自分の事として言っておりますけれども、また同時に私たちの代表として、ほら、あなたも同じように新しい自分になって生きていける、こんな自由な生き方を、神様は私たちに与えて下さっているのだと、言わば、アメリカ人がこうやって手で招いて、ヘイ、カモン!一緒に行こうぜとやっているような、私たちを自由な世界へと招いている言葉です。
その世界というのを「神様に生きる」と聖書は申しますけれど、天国に行った先の話をしているのではなくて、今、ここで、この私たちが、神様に生きる、今ここでの話です。聖書が教えている神様の話は全部そうです。天国の話をしているところでも、だから、さあ今、一緒にこのように生きようという、今ここでの話を聖書は常にします。今ここで、私たちに向き合っておられる神様が、同じように生きている私たちに、いや、同じようには生きられていないからこそ、本当に生きたいとか、もう死にたいとか思う私たち、あるいは何となく生きている私たちが、真実、神様から与えられた命を、ああ、私はこのために生まれて来た、私は天からの命、天命を全うしていると思えるような命を生きるようになる。神様に生きるとは、天命に生きるとも言えるでしょうか。
以前、同窓会に行きました時、野口、おんしゃあどういて牧師になった?と聞かれました。私も自分からなりたくてなったわけではなくて、神様から牧師に召されたからとしか言いようがないのですけど、それをそのまま言うてもわからんかも、と思って、そうやねゃ、天職やったきとしか言いようがないと答えました。それを尋ねた同級生は父親の会社経営をこれから継ぐところだったからでしょうか、天職か、そうやねゃと納得して聞いておりました。私たちの人生において、これは自分で選んだと言うよりは、選ばれちょったとしか言いようがないこと、あると思います。子は親を選べんし、命そのものも選べない。その責任は神様が取られるということが確かにある。命が与えられているということ、そのものも、神様から与えられる他ない。という意味で、天命、と私は申しましたが、聖書が教える命とは、そのように神様から神様の責任で与えられた命です。
無論、しかし、その命をどのように生きるか。それは自分で選ぶ部分が多くあって、そこで私たちが選び、選択する道によって、自分が不幸になったり、人を不幸にさせたり、逆に幸せにしたりする。その私たちが選ぶ部分を、神様は正しくお裁きになられるということも、聖書は、決して軽んじてならないこととして強調して教えています。またそれ故に当然のことでもありますが、じゃあ何が正しい道か。何を基準に神様がお裁きになられるか。その基準、正しさの基準、正義の基準も聖書は告げておりまして、それが今朝の御言葉で言われる「律法」だと言えばわかりよいでしょうか。裁判所でも、何を基準に人を裁くかと言うと、法律を基準に裁く。だから憲法を変えようと、今の憲法だと、自分たちの都合でやれないから、という話にもなるのですけど、それぐらい正義の基準となるものが法律です。しかも神様が、わたしはこの正義基準で永遠の裁きをすると、正しい裁判官として与えたものが律法ですから、憲法のように、国民投票で変えたりはできない。それだけ絶対なものとして、律法が与えられているなら、そら、ユダヤ人たちが律法を守れば救われると思うのも、当然と言えば当然です。それだけ絶対な正しさの基準が、ここにはあるからです。
しかし!です。虎の威を借る狐と申しますが、律法の威を借る罪人と言いますか、自分には絶対の正しさの基準である律法があるとか、それを学んでいるとか、深い意味まで知っているとかで、自分が律法の正義基準を守っていて、その基準を満たしていることには当然なりません。妻がいても、妻を愛していることにはならないし、むしろ妻の存在というものは、如何に自分が罪深い人間であるかを悟らせるために存在しているんじゃないかと思わせるほどかもしれません。いや、妻を律法に譬えると、差し障る恐れがあるかもしれんので(笑)、別の譬えにします。
このガラテヤの信徒への手紙3章24節、次の頁へピラっとめくって頂いて、下の段24節で、次のように言われています。「こうして律法は、私たちをキリストのもとに導く養育係となったのです。」
養育係。例えば父親としての私の立場がそうです。私は娘に対して、いずれ花婿に手渡すまで、娘の養育係として娘に対しては存在していることを理解しているつもりです。今朝は小学校の防災参観日で幸いと言うか、娘はおりませんので、ちょっと言い難いことも言いますが、養育係ですから、時に厳しいことも言わなければなりません。いかんもんはいかんと、顔を恐くして言うこともあります。無論、厳しいことばかりでも養育係としては失格ですし、聖書の律法がそうであるように、律法は正義の基準ですから、それを満たすなら、どんなに幸せで、楽しくて喜ばしい実りを結ぶかも教えます。例えば自分のお菓子とかでも、それあげちゃりや、ほいたら、お父さんも後であげるき、もっとえいもんをあげるき、必ずあげるきと、聖書が教える報いの原則を教えます。で、必ずあげます。その時の笑顔が大好きです。与える者は幸いやろ、相手も嬉しい、自分も嬉しい。それが天の父なる神様の正義、愛の正義であることを養育するのですが、同時に、その正義に逆らって自分中心に、人の気持ちも神様の気持ちも考えないで、自分がやりたいこと、また、自分がやりたくないことを、律法に反して選び選択するなら、その報いもまた当然あることを教えます。人は神様の律法、神様の正義に従うか逆らうかを選ぶことはできますが、その報い、その結果をも選ぶことはできんからです。聖書がハッキリと教え導くのは、罪の報いは死であるという神様の聖なる正義の基準です。けんど他の人らあもやりよったきという言い訳も、私は養育係として聞きはしますが、お父さんいっつも言いゆうろう、いかんもんはいかんと、と言う。天の父もそうでして、その律法が要求するように、正しい聖なる裁判官として、罪に対する死の報いを求刑されます。神様がおっしゃる、いかんもんはいかん、と、人間が勝手に考える、けんどえいろう、の違いで、おそらく最もわかりやすいのは、このイエス様の言葉じゃないでしょうか。「兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に馬鹿と言う者は最高法院に引き渡され、愚か者と言う者は火の地獄に投げ込まれる」また「みだらな思いで他人の妻(あるいは自分の結婚相手以外)を見る者は誰でも既に心の中で姦淫を犯したのである。もし右の眼があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」。
厳しい!と思う。でもこれが律法の教える神様の正義、死後の裁きの基準ですから、私も養育係として娘に教えました。罪犯しゆう?うん。神様は罪を裁かれるろう。うん。その罪の裁きは死なが。でも、その死の裁きを、神様が人になって、イエス様になって、身代わりに死んで、引き受けてくれたがよ。それで赦されるが。信じたらえいが。そしたら本当に生きられるが。この十字架にね、こっちゃんもイエス様と一緒に架かったが。神様が、そうで、イエス様が死んだ時、こっちゃんの罪の裁きを全部もろうて死んだがやき、こっちゃんが死んだが。信じる?信じて、こっちゃんと一緒に生きるために復活したイエス様をこっちゃんの救い主として信じる?うん。これが娘への洗礼準備会の内容でした。
そしてこれは私の養育係としての務めでもありました。律法も同様に私たちをキリストのもとに導くのです。人は皆罪を犯しているけれど、その報いを受けないかんけど、その報いをキリストが身代わりに受けてくれたから、あなたはキリストによって生きることができる。あなたは私に対しては死んだがやき、さあキリストのもとに行きなさいと導く。
私が父親として娘の結婚式に出席する時のことを想像されたら良いと思います。娘のドレスのすそを踏まんようにするのがきっと精一杯私にできることじゃないかと思いますが、美しいままの汚れなき娘をお相手にお渡ししないといけませんから、踏まないよう、踏みつけないよう、ましてつまずかせたりせんように、養育係として、いかんもんはいかんと言う者として、キリストの御前に導くのです。もう律法と私と重ねて話していますが、そして私はキリストが選んで下った花婿の前に、娘を導いていって、夫婦となる二人が立つ場所、二人しか立ってはいけない場所の一歩手前で、私は立ち止まらなければなりません。それ以上を踏み越えていくことはできない。そこまで導くのが私の役割で、そこから先は、娘と夫婦になるために神様がお選び下さった方に、娘は属するようになるからです。その先は、その方が言ってくれます。いかんもんはいかんと。私が持ち得ない愛情を持って言ってくれます。
キリストも言われます。いかんもんはいかんと。それは罪であり死だと。しかし、その罪と死を十字架で引き受けて、裁かれ死んで下さった方が言われるのです。本当に死ぬほどに永遠の愛で私たちを愛し抜かれた神様である方がです。さあ、新しく生きて行こう。古いあなたはもう死んだ。これからは自分に生きるのでも、人の要求に答えて、人の顔を見て生きるのでもない。わたしを見なさい、わたしがあなたを導くと、十字架の救い主が言われる。そこに私たちの新しい命があるからです。