ガラテヤの信徒への手紙2章17-18節、申命記6章4-5節「義人であり同時に罪人」

17/11/19朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章17-18節、申命記6章4-5節

「義人であり同時に罪人」

「もし私たちが、キリストによって義とされるように努めながら」。努める。努力している。私はこれを読んで、はて、私は何かに努力しているかなと考えてしまいました。皆さんはどうでしょう。何か、これに私は努力しているということがあるでしょうか。私は土佐弁で言う極道な人間で、ぐーたらな怠け者であることをどうにかせないかんと思いながらも、なかなか直らない。で、色々なやらないかんことが山積みになって忙しくしてしまうパターンと言いましょうか。表向きは多忙なのですけど、そら根っこが極道ですきにと言うても、なかなか信じてくれん人が多い。変な話、努力する人になれるよう努力したいと、わけのわからん甘えたことを思っています。もしこれを聴いて、ああわかるわかると思われたお仲間がおられましたら、お互い祈り合いましょう。主よ、努力できる人にならせてくださいと。

努める、努力するというのは、でも一方で、あれ?キリストを信じて罪赦されて救われるがやき、自分の努力によって救われるがやないがやき、努力はキリスト教に合わんがやないが?と思われているところが、ひょっとあるかもしれません。

確かにキリストを信じる救いとは、唯キリストの故に、いかに罪深い人間でも、その罪を赦される。全ての罪を十字架でキリストが身代わりに背負って裁かれて死んで下さったから、だからその身代わりで赦されて、死後の裁きにおいて、あなたの罪は赦されましたから、有罪判決はあなたには与えられない。その判決をキリストが十字架で受けられて、身代わりに有罪となって死んで下さったのだから、そのキリストの死と復活が、あなたのためだと信じる人は、キリストによって義とされる。天国の入口で、あなたの正義はキリストによって果たされたから、あなたには、キリストによって義、正義であるという判決を与える、と神様が宣言される。そう、確かにそれが、キリストによる救いです。それは間違いない。死後の天の法廷において、自分は自分なりに正義を行おうと努力しましたという自分の努力が認められることを、多くの人は望むのかもしれません。努力した。そら正義でないことも行った。罪も犯した。けんど努力はしたがです、ということでもあるでしょうか。日本人は特に好きなのかもしれません。表彰式でも努力賞とかってのがある。届かなかったけど、評価基準を満たしてはないけど、努力は評価する。これからも努力して励んで下さいと。人の生き方としては、とても良いことだと思います。努力が認められるというのは嬉しいことでもある。けれど、こと罪に関しては、被害者がいます。いや~殺さないように、姦淫しないように、破壊しないように努力したんですけど、は通用せんのです。それが正義だからです。神様は、正義を求められます。努力も求められますけれど、それで正義を蔑にして、えいやか努力したがやきという、被害者の正義を踏みにじるようなことは決してなさいません。正義が踏みにじられた罪に対しては、それに相応しい正義の執行を必ず要求されます。目には目を、歯には歯を、という正義の報いの原則が、モーセの律法に数えられている所以です。

しかし!目には目をの正義の原則に対して、私たちの罪にはキリストを!と、神様はキリストを身代わりに罰して十字架で正義の執行をされることで、私たちに要求される正義を満たして下さった!キリストによって義とされるとは、そういうことです。

そして、私たちが自分の力、自分の努力で、自分の罪と裁きから自分を救おうと、救えるだろうと、神様の正義を無視するようにして、自分を救うため努力をしてきたのなら、それはもうやめなさいと主は言われるのです。あなたの努力があなたの罪からあなたを救うことはないからと、むしろ、あなたはその努力の矛先を、そのあなたと他の人々を救うために全てを捧げておられる神様の正義がなるように、向ければ良い。あなたの内に、キリストの正義が実を結ぶように、また、そのあなたが自らを捧げて生きる世界の中に、キリストの正義が実を結ぶように。それが、キリストによって義とされるように努める生き方だ、と主は言われます。それは単に昔の使徒パウロやペトロたちの生き方ではなくて、全ての人に、神様から与えられている恵みの生き方です。

じゃあ、です。17節が言います「もし私たちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない」とはどういうことか。ちょっとわかりにくい。こう考えたら、わかり良いと思います。

キリストが神様の裁きにおける私たちの正義となって下さった。なら私たちが日々の生活を生きる中で、神様の正義基準を、私たち自身が、満たすか満たさないかを、私たちはもう考えなくてよいのか。自分の救いのためには、もう考えんでよくなったのです。むしろ、神様の喜びが満ちるように、またそのことで神様の子とされた私の喜びも満ちるように、神様の愛の正義に生きればよい。具体的にはキリストが生きられたように、そして「わたしに従いなさい」と招かれ導かれるままに、神様の愛の正義基準に従って、これが愛だと生きれば良いのです。自分が義とされるための正義基準だなんて、自己中心に考えなくてよい。

もっとも、神様の救いのご計画は最初から、キリストによる救いでしたから、アダムとエバの時から、私たち自身が、私たちの救いのために神様の正義基準を満たすということは、そもそも考えんでも良かったのです。神様の約束を信じ、赦しを信じて恵みに生きる。それが旧約時代でも神様の救いの道でした。

でもそうなると、自分の救いのために、私は神様の正義基準を満たさなくてもよいのだ、だってキリストによって義とされるんだから、ということになると、どこか心にゆるみが生じるんじゃないか。罪を犯しても…ってことになるのではないか。そこで自分に言い聞かせる言い訳として、私はキリストによって義とされるんだからと、そこに救いの答えを見出そう見出そうと努力して、けれど自分としては、罪を犯している自分を発見する。もしそういうことになると、キリストは罪に仕える者ということになるじゃないかと言う人々が、この手紙を書き送った先のガラテヤ地方の教会ではおって、こう言っておった。だからキリストを信じるだけでなくて、律法の実行がないと救われない。キリストのみによって義とされるという考えは、キリストを罪への奉仕者としてしまうから、そんなのおかしいだろうと。

この考え、努力を重んじる日本では、特にわかりやすい考えなんじゃないかと思います。譬えるなら、大学の推薦入学が決まってしまって、しかも自分が努力して勉強してテストで高得点を出して云々という理由ではない、完全な学校推薦で、そんなのあるかわかりませんが、それで入学が決まってしまったら、もう決まったからと、まだ学期も残っているのに、遊んでばかりいる…ってことになるから、推薦はあってもえいけど、最後まで勉強して努力して、そしたら入れちゃる、という条件であるのが当然だと。学業の基準を満たすのが入学条件という大学なら、当然かもしれません。しかしその名を愛と呼ばれる神様との正義の関係に入るのに、あるいは、キリストによって入れてもらった正義の関係を保つためには、愛という学業成績や事業実績を満たしてないと、入れなかったり、リストラされたりするんでしょうか。決してそうではない!

それは何度も譬えに出しますけど、家族の関係に、実績主義を持ち込んだり、雇用関係のように、ノルマを満たしたら家族として扱うけど、基準を満たさんかったら、求めを満たさんかったら、他人同様、という関係の考え方が、全く相応しくないのと同じです。相応しくないばかりか、私たちの天の父と呼ばれる神様が、世界をお造りになられ、私たち人間を求められ、神様の形に命をお与えになられた時、そこに与えられた家族という関係には、愛の関係、信頼関係以外は、全く相応しくない関係を最初からお与えになられたのです。そして天の父は、その関係を通して、ほら、だったら、あなたがわたしを天の父と呼び、そこに求めるべき関係は、どんな関係であるかわかるだろうと、ただ信頼によって結ばれる関係をキリストによって差し出してくださった。なのに人は、その関係を自己中心の罪によって破いて、神様の心も、その正義も破くだけでなく、その破かれた関係も心も正義も、更に自分中心の実績主義で、自分はこんなにやっているから認められて当然だと、ごめんなさいさえ言わないで、自分の努力を主張して自分は正しいと思う。

その罪の全部を、神様は御子キリストに負わせられて招き続けられるのです。神は愛だから、私たちの天の父だからと「わたしがあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と、キリストの死による完全な償いと赦しを根拠に、ここにあなたの帰る場所があるとキリストを通して手を伸ばされるのです。

このキリストこそ、私を救う神様の正義だと、神様と私とを結ぶ完全な正義の満たしだと、キリストを救い主として受け入れた者は、18節で言うように「自分で打ち壊した」のです。何をか。自分の行いや努力によって自分は救われるという幻想をです。こりゃ嘘やと自分で打ち壊して、十字架の正義こそ信じるに値する真実な正義だと、キリストを信じたのなら、もう幻想を再び建て直す必要はありません。例えキリストによって義とされるようにと努めながら、けれど自分としては、罪を犯している自分を発見して、それはキリストによる赦しを言い訳にしているからじゃないかと思ってもです。ハッキリ言いますが、赦しを言い訳にしようがしまいが、私たちは罪を犯すでしょう。問題は、犯した罪を、自分の努力で帳消しにしなければと自分が裁き主にならないことです。神様を信じるとは、神様が私を正しく裁かれると信じること。そしてその裁きを神様はキリストの十字架で裁いて下さったと信じることです。神様はその信仰を見て、ああ正義が満ちると喜んで下さる天の父です。だから、その父に、言い訳でなく、ごめんなさいと信頼の頭を垂れればよい。神様の正義が実を結ぶための努力も、その信頼に宿るからです。