ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節、列王記上12章25-33節「キリスト以外の福音?」

17/9/10朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節、列王記上12章25-33節

「キリスト以外の福音?」

乗り変えたらいかんもんってあります。例えば、これから沈没する舟へは乗り換えてはいけない。その舟に乗っちゅうカチカチ山の狸さんが、え、平気平気、だって俺が乗っちゅうがやきと、どんなに強気で言っていても、沈む泥舟に乗り変えてはいけない。また例えば、僕~とか、お嬢さん、ちょっと道を教えて欲しいがやけど一緒に乗ってくれん、と、優しい笑顔やイケメンスマイルで、お礼はしますと言っても、知らない人が、しかも実は連続誘拐殺人犯が運転している車に乗り換えてはいけない。何故でしょう。親が、いかんと言ったからでしょうか。先生が、いけませんと言ったからでしょうか。大人は大丈夫でしょか。本当でしょうか。親や先生や牧師が言ったからって、自分で納得せんかったら、結局は頭での知識に過ぎないかもしれません。怖いと思わなかったら、危険だと思わなかったら、自分がもしその口車に乗ったら、その先におそろしい結末が待っていると、自分の行為の結果を想像することがなかったら、うまい話に、自分の何らかの欲望をくすぐる話に、乗ってしまうということは確かにある。皆さんは、どうでしょうか。

いやけんど、車に乗って道教えてと言いゆう人が殺人犯らあて、どうしてわかるが、という反論もあるかもしれません。無論、これは譬え話ですから、実際に、その人が殺人犯だとすぐにわかるか、顔に殺人犯と書いちゅうかと言うたら、まあ書いてないので怖いのですけど、さて、ではこの譬えは、何の譬えか。今朝の御言葉の言葉で言えば「キリストの福音を覆そうとしている」「ほかの福音」が、この譬えの殺人犯です。一見そうは見えない。でも、乗り換えてしまったら、その先おそろしい結末が自分に待っている殺人犯の乗っている車には決して乗り換えてはいけない!どうして乗り変えようとしているのか、絶対にいかん!と、この手紙を書きましたキリストの使徒パウロは、鬼気迫る説得をするのです。

鬼気迫るというのは、因みに危険が迫っているという意味ではなく、鬼のような気迫のことです。使徒パウロを鬼に譬えるのは如何か(笑)とも思いますけど、やはり鬼のような気迫が、この手紙を書いた時にはあったと思います。だって、皆さんも、聴いていて感じられたかもしれませんが、「呪われるがよい」という言葉を二回も使う。二回目は敢えて繰返して言いますと断った上で、「あなたがたが受けた福音に反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」とダメ押しをする。尋常じゃない気迫です。パウロはそんな乱暴な物言いをいつもしているような、いわゆるきっつい人ではありません。でも、こと問題が、人々を、キリストの救いから遠ざけようとしている、ということになると、鬼気迫る言葉が出てくる。それは本当にパウロが人々の救いのために、命を捧げておったからだなと思うのです。ま、いっか、とはならんのです。

だって皆さんも自分の家族や愛する人から、あのよ、今日、車に乗っちゅう人から道教えていうて頼まれて、明日その人の車に乗るがやけんど…という話を聴いて、え?もうちょっと詳しく聴かせて、と聴いた話が、それは絶対にダメ!という話だったら、どうされますか。自己責任やき、お前が選べと言うでしょうか。特にパウロからしたら、ガラテヤ教会の信徒たちは、自分の子供たちのような存在です。しかもまだ洗礼を受けてそんなに経ってなく、本当に幼い子供のように、あるいは狼にだまされて食べられてしまう七匹の子ヤギたちのような、ま、一匹は、お母さんの言いつけを守って助かりますが、後の六匹は自業自得の自己責任で、お母さんヤギから、あきれられて終わりか?決してそうではないでしょう。狼の腹をかっさばいてでも助け出さないかん!と鬼気迫るのが親であり、パウロであり、またもちろんそれは、私たちが救われるためならとご自身を十字架で引き裂いて罪の裁きの身代わりとなられたイエス・キリスト、人となられた神様の鬼気迫る愛の現れそのものです。

その愛が迫るから、パウロ自身キリストの鬼気迫る十字架の愛が心に迫って、魂が説得されて、アーメン、だから人は救われるのだ!と信仰の納得を得て、自分自身、キリストを信じた。そして人々にもキリストを信じよう、こんなにも確かな救いの知らせ、福音がある!と告げ知らせた。それで誰かが、本当や、こんなに確かで嬉しい救いがあるがや、これが神様ながやと、キリストを信じて洗礼を受けたら、もう何よりも嬉しい。それだけキリストの十字架で示された神様の愛に、キリストの救いの知らせ、福音に、パウロの全部が説得されているからでしょう。だからもしそのキリストの救いを捻じ曲げた、あるいは一部を変えて、似てはいるけども嘘のキリストの福音が教えられているのを知ったら、あっそ、とは、決してならない。愕然とする。誰がそんな嘘のキリストの救いをと。それは譬えれば、私が自分の家族についての、嘘の情報を耳にするようなものでしょうか。愕然とする。他人ではないですから。自分自身だとさえ言い得るから、そこには鬼気迫る思いが当然起こる。おわかりになると思います。そして、それがおわかりになるなら、神様がどうして、私たちのために死のうと決意なさるほど、私たちの救いを望まれ、求められ、私たち自身が自分の救いを求める以上に真剣に誠実に私たちを求めて死なれたか。どうして神様の救いは、そんなにも鬼気迫る十字架の救いなのか。何で「神は愛なり」と言われるか。おわかりになると思います。他人ではないからです。だからその救いが自己責任になるなんてのは、愛がわからなくなってしまって自己責任を愛する、人間の作り話でしかない。

言って見れば、この自己責任の救いの考えが、しかもそこにキリストの名前も登場させはするけど、神は愛とかとも言ったりするけど、でも結局は自分がちゃんと神様の掟を守るから救われるとか、信じるという努力で救われるとか、信じるとは言うけれど、それは信頼関係ではもうなくなって、自分の行い、信じるという行いによって救われるんだと、キリストより、とにかく自分。最終的には自分。自己責任。自分の行い。そこにそれなりにキリストの名前も出す。それが、今朝の御言葉で使徒パウロが糾弾している、「キリストの福音を覆そうとしている」「ほかの福音」です。

そしてパウロは、そんなキリストの福音に反する、嘘の福音を教える者は、呪われるがよいとさえ言う。確かに、きっつい言葉ですが、その内容は、何となくお化けに取りつかれるようなオドロオドロシイものではなくて、聖書で言われる呪いというのは、例えばヨブという人が自分の生まれた日を呪って、私の生まれた日は消え失せよと言った。つまり自分は生まれなかったほうが良かったと言う。苦しくて死にたくなる時に、私たちも同じようなことを思ったり、苦しみや怒りを誰かにぶつけたくて口に出して言ったりする。生まれんかったほうが良かった。これが呪いです。いなくなりたい。あるいは、これを人に向けて言うなら、あなたにいなくなって欲しい。恐ろしい呪いの言葉です。けれど案外、私たちも誰かに対して時々思うことであるかもしれません。案外私たちも人を呪っているかもしれません。あの人がいなくなってくれたらいいのにと。その全く反対にあるのが、祝福です。よく結婚の例をあげて申しますけど、あんた、こんな人と一緒になって良かったねえと、笑顔でおばちゃんが言う。一緒にいること。共に生きること。それが聖書の教える祝福です。礼拝の最後にも祝祷、祝福の祈りを「あなたがたと共にあるように」と祈る、あるいは宣言します。そうだ、これが私たちのために、キリストを与えて下さった神様だ。私たちが神様と共に生きることができるようにと、キリストを私たちのため死なせ復活させて下さった神様が、そのキリストの恵みによって共にいてくださる!この恵みの神様が本当に生きておられるから、あなたもこの神様の恵みのもとで、神様と共に生きられる。ああ、この祝福があるように!神様はあなたと共に生きるために生きておられる!これが祝福です。

その神様が与えて下さったキリストの恵みの福音を覆して、別の福音を人に伝えるということは、要するに、神様の祝福を嘘にして、救いは結局、自分の力による、自己責任によると、自分で自分を祝福しているに過ぎない。神様と共に生きるのでなく、その神は自分の顔をしていて頑張っている自分の顔をしていて、神様のお名前は出すけど蚊帳の外。それは生きておられる神様をいないことにして自分を神とする呪いじゃないか。そこにあるのは祝福じゃない。呪いだ。その人は自分を呪って神様と共に生きないだけじゃなく、他の人まで神様と共に生きないようにしようとするのか。そこまで自分なのか。その自分こそいなくなるほうがよい。これが鬼気迫る福音伝道者パウロの言わば説得の呪いです。

というのは、手紙はここで終わりませんから、じゃあ、そこまで言うキリストの救いとはどんな救いかと、ここから長い説得をしてキリストの十字架による救いの何たるかを告げ知らせ、その十字架のキリストを仰ぐのが、この目的です。その十字架を最後に少し見て終わります。

3章13節(1枚めくった左ページ左下)「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木に架けられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」

木に架けられた者は皆呪われている。十字架に架けられたキリストが「わが神、わが神、何故わたしを見捨てられたか」と叫ばれた。それは呪われたからです。人間は神様の恵みのもとで神様と共に生きるより、自分自分!と自分を捨てられない。自分を捨てるより恵みの神様を捨てる。そんな私たちを、しかし神様は捨てられなくて、人となられた御子なる神様に私たちの罪の裁きを全部負わせられ、十字架で私たちの身代わりに裁き捨てられた。それが呪いです。キリストが、神様であられる方が、私たちの身代わりに呪われることを選んで下さった。この呪いの十字架を、神様は私たちの救いの十字架とされたのです。このキリストのもとに、恵みのもとに、誰でも来なさい、何度でも来なさいと招かれたのです。呪われた者さえも、この十字架のもとに来なさい。あなたの呪いは、わたしが負ったからと、恵みの主キリストが言われます。この恵みの十字架のもとで、私たちは神様と共に生きられるからです。