ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節、エレミヤ書1章4-10節「私の救いの履歴書です」

17/10/1朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節、エレミヤ書1章4-10節

「私の救いの履歴書です」

人付き合いが得意な人、またそうでない人がいます。いま聴きました御言葉から推測される使徒パウロの姿は、どっちでしょう。どちらかと言うと、人付き合いの悪そうな印象を持たれるのじゃないでしょうか。あまり人付き合いが得意そうではない。回心前にユダヤ教徒だった時にも、他の同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていたとか人一倍熱心だったとか、何かちょっと周りから浮いているけど、それがどうしたと気にかけないで突っ走るタイプのような印象です。他の人がどうであろうと、私は!…それが必ずしも悪いと言うのではないのですけど、ちょっと協調性に不安を感じないでもない。

ではキリストに出会って、キリストを信じて回心した後は、どうかと言うと、「すぐ血肉に相談するようなことはせず」。誰にも相談しないでと言えば良いところを「血肉に」って、すごい言い方です。人付き合いが苦手で…と言う代わりに、私、血肉付き合いが苦手で(笑)。もう余程苦手なんだろうか。その後もエルサレムの使徒たちのところにすぐには行きませんし、やっと3年後に行ったと思ったら、二人にしか合わん。

大丈夫かパウロと、ともすると心配になるような書き方をしているのですけど、大丈夫!これには理由があるのです。敢えてそういう書き方と言いますか、振る舞いをした。それを強調して、まるで人付き合いが悪いような書き方をしている。何でか。11節をご覧ください。「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」。これを強調するために、この手紙を読むガラテヤ教会の信徒たちがハッキリそのことがわかるために、まるで人付き合いが悪いようにパウロは記すのです。ハッキリせないかんからです。キリストの福音を信じる生き方の一番大切な急所は何かをです。

キリストの福音を信じる生き方で最も大切な急所は何か。人との付き合いより、神様との付き合いを、大切にする。しかもハッキリけじめをつけて、神様を一番にするということです。イエス様がおっしゃった、何よりも神の国と神の義を求めなさい。つまり神様との正しい関係を、何よりも求めなさい(マタイ6:33)という、この順序。神様が一番先にくるように、一番に求めなさい。そうおっしゃいました。求めなさい。求めることで、愛がわかるからです。何をその人が愛しているかは何を求めているかでわかる。神様を愛しているかは、神様を求めているかでわかる。またその順番でわかる。イエス様が教えてくださった主の祈りも同じでしょう。順番がハッキリしている。まず何を求めるか。御名があがめられ、神様の愛のご支配、御国が来ることを先ず求める。

ガラテヤ教会では、その順番が狂おうとしていました。以前、ペトロがイエス様からすごい怒られたように、神様のことではなく、人のことを考え、人のことに目が行き、人間のこと自分のことばかり意識して、あるいは無意識に神様を後回しにして、自分のことや、人が自分にどうしてくれるかということを先ず思って、信仰の歯車が狂いかけていた。それはキリストを信じる生き方ではないだろうと、パウロは説得をするのです。あなたがたに伝えたキリストの福音、救いの喜びは、そういう人のことから、あなたがたを自由にする福音ではなかったか。それは決して人による人のために作られた人間を主語として人間が人間を救う、人間による福音ではなかったろう。「兄弟たち、あなたがたにハッキリ言います。私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」今もこのことはハッキリせんといかんのです。

では福音は何によるのか。続く12節でハッキリ言います。「私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」。啓示によって。これは使徒言行録9章に詳しく述べられていますが、啓示とは、覆われていて見えなかったのが覆いが取り除かれて見えるようになることです。日本語になった聖書の言葉で、目から鱗が取れるという諺が、パウロに与えられた啓示です。それまでパウロは自分がどう救われるかは見えていると思っていた。人一倍熱心だったという自負があるパウロです。自分の頑張りは見えたのです。これを神様も見ているに違いないと思っていましたが、それが目を見えなくさせていました。神様の恵みが見えない。恵みの御心、神様の喜ばれること、私たちに神様が求めておられる、恵みの関係、信頼の関係が、覆われていたのです。自分自分の罪がキリストの恵みを覆って見えなくさせていた。それはパウロだけでなく、私たち全てに当てはまる人間の目の暗さです。キリストの恵みを覆い隠して見えなくさせる、罪の鱗が、確かにある。深刻なことには、キリストを信じたのに…それがガラテヤの人々に起こっていたことですが…またもや自分という鱗で神様の御心が覆われて見えんなる。キリストが救って下さるという恵みが覆われて、自分で自分でってなってしまう。2章に進みますと、何とペトロにもそれが起こってパウロはペトロを公然と非難するほどです。誰にでも起こる。嫌な鱗です。

なら、です。そんな自分自分の、神様のことより、人のことを思ってキリストの恵みを後回しにしてしまう罪深い人間が、どうやったら神様の恵みへと目が開かれて、キリストを覆う覆いが取り除かれて、私にはキリストが必要です!とキリストを求め、キリストを信じて救われるのか。キリストの啓示によってです。生きておられるキリストご自身が、今も私たちの目を覆っている罪の鱗を落としてくださって、他の誰でもない!キリストご自身が語りかけて下さっているという福音の真実を、神様が示してくださることによってです。

既にキリストの福音を信じ洗礼を受けられた兄弟姉妹たち全員には、その恵みを改めて思い出して頂きたい。確かにキリストが語りかけてくださって、私は信じたのだと。それは全部が腑に落ちて、納得したからでは、おそらくなかったと思います。説明がつかないことが多いのではないでしょうか。でも信じた。あるいは信じるというのを、自分で強く自覚して信じた~!というイメージで思っているなら、信じてなかったと思うかもしれません。自分を情けなく思うかもしれません。でも自分を誇るぐらいなら、喜んで情けない自分をキリストに差し出して下さい。この私を受け入れて下さるのがキリストなのだと、それが十字架で私のために死んで下さった神様なのだと、このキリストだから私は救われるのだと、信じて、キリストの名を呼ぶ者は、啓示を受けているから呼ぶのです。それがキリストの啓示です。このキリストの啓示によってのみ人はキリストを信じうるからです。

そして、このキリストの啓示は、パウロにだけ特別に与えられたのではなくて、そうだったら、こんな説得をパウロはしません!こんな我が強い私パウロが、どうしてキリストの福音を信じて生きるようになったかを説き明かして言うのです「しかし、私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神様が御心のままに、御子を私に示して」下さった。自分で信じたのではない。神様が御心のままに私に御子キリストを啓示することを喜ばれたが故だ、だからだとパウロは説得するのです。あなたにもそうじゃなかったかと。それは神様から始まった。恵みから始まった。それが神様の御心だから、神様から全てが始まったのです。ならば、その神様のことを一番にするところ、全ては新しく創造される。その恵みもキリストが啓示して下さるのです。