14/5/11復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書57章14-21節
「柔和に平和をつくる人」
「平和の福音」と御言葉は語ります。他にも語りようはあるのです。喜びの福音とか、慰めの福音とか、救いの良き知らせを形容するのに、色んな言い方があり得ると思いますが、ここで強調されるのは「平和」です。それがまた、じゃあキリストの救いの知らせを、どう人に伝えればよいのか、その伝え方、伝道の在り方をも、教えていると言えます。もし喜びの福音を告げると言われていたら、やはり喜んで伝えるというイメージがあるでしょう。じゃあ平和の福音を告げるというのは、どういう告げ方をするのでしょうか。
既にこの手紙の2章で「キリストが私たちの平和です」と、キリストの下さった救いが、平和として語られていました。救いとは何かと語るとき、それはキリストの下さった平和だと語る。
平和と言えば、争いがない状態を日本人はイメージするでしょうか。領土とか、君が代斉唱起立とか、そういうキナ臭いのがないのが平和。それも間違いではないでしょう。2章でもキリストが敵意という隔ての壁を取り壊して下さったと語ります。韓国と朝鮮を互いに緊張関係に置かせるような壁、あるいは見えない壁、見えない国境があると、平和でない。国境なんて何であるのでしょう。前にちびまる子ちゃんで、姉と同じ部屋にいるのが嫌で、こっから私の陣地だからお姉ちゃんのモノは置かないでねとかって争っている話がありましたが、あれ、国家間だけのことではないでしょう。神様との間にも、そうした見えない国境を、目には見えんのに、でも確かに存在する国境を、ガリガリガリと人間は引いて、神様はこっから私の生活に越境してきたらいかんと壁を置く。そして神様との関係を壊し、関係を切り離し、神様の心を引き裂いて、私は私、私は自分の人生を自分の力で、救いも自分で、自分の力でと、神様の愛と正しさと聖さから一線を引いた。そしてアダムとエバが永遠の一線を超えたように、人は罪の国家支配の中に飛び込み、身を隠し、溶け込んで、神様から離れ、神様との関係が断たれてしまっている状態にいる。神様との間で、平和が断たれている。これが何故、聖書が救いを語る時に、平和を語るかという理由です。神様との関係が断たれている状態。またそれに甘んじる状態と、無関心であることの結果。それが聖書の語る罪です。
注意頂きたいのは、この神様との関係がキリストによって回復された状態を、聖書が平和と呼んで、平安と呼ばなかったことです。もし平安と言ってしまったら、大きな誤解を与えることになります。平安が個人の心の状態を言うのに対して、平和は個人だけで終わりはしません。わかりやすく言えばこうです。人間関係で問題を抱え、ストレスがあり、平安がないとき、例えばモルヒネ打てば関係はそのままで平安になる。マルクスが、宗教は阿片であると言ったのは、うまいこと言うたと思うのです。あの人、社会主義者ですから、社会に、人と人の関係に関心がありますから、個人主義的な自己満足、自己実現に堕し、人との関係に無関心に見えた教会に我慢できんかったんでしょう。壊れた関係を変えなければならないと考えた。それもよくわかります。でもそれを、力で変えようとしても、間違った平安は粉砕し、ゲバできても(笑)、平和をつくりだすことはできんのです。
平和とは、愛の関係がそこにあり、両者が一つであることです。単に争いがないのではない。個人と個人が互いに愛などはないのだけれど、利害関係が一致して、愛しはしないが争いはしない。そんな嘘の結婚のような仮面関係を与えるために、神様が十字架で死なれたわけではありません。聖書がシャロームと呼ぶ平和。神様との間に国境がない、壁がない関係は、生きておられるキリストに支え続けられている関係です。罪を犯して、もし神様をうざいと思って、背を向けて、わかっているのに敢えて罪を犯すようなことをして、ガリガリガリと国境を引いても、そのガリガリをキリストが背中に受けて下さって、全部キリストが身に負われ、父と私たちとの間に立たれたキリストが、私たちを背中にくっつけて、父よ、この罪はわたしが負いましたから、ここに溝などないのです。わたしがその溝に橋をかけて永遠の道となったのですから、この道をこの子は自由に行き来できるのです。この子はあなたの子だからですと、キリストがいま生きて執り成して下さっている。そして私たちに向いて言われるのです。あなたの罪は赦された。生まれ変わって生きて行こう。あなたも父の子供だ、一緒に歩もうと。
これがキリストによって神様と回復された関係、平和と呼ばれる救いです。そしてこの平和の関係は、心に平安がないときでも壊れん平和です。私たちの罪によってさえ、粉砕できない平和の関係です。何故ならそのためにキリストが、十字架で私たちの罪そのものとなって粉砕されて陰府にまで降られて、変わり果てられたお姿になって下さったから、だから私たちは、このキリストの身代わりの変わり果てのお陰で、ただ恵みによって生まれ変わり、神様との壊れない家族関係に生きられる。ならば平安とは、この揺るぎないキリストの恵みの平和に、アーメン、この平和は、変わることのない永遠の平和ですと、キリストを100%の救いの根拠とするところで、心に生まれる平和の実りです。
ですから、平安がないときでも、悩みや不安があって心が安んじてないときでも、伝道はできるのです。辛いけど、しんどいけど、キリストの平和があるから、揺らぐことのない確かな私の場所が、私には神様の前にいつもあるから、辛くても、私はそこに立って慰めを受けているのですと言える。嵐の只中にあっても、でもこの場所はなくならないと。言わば落ち着いて不安な状況を受けとめて、何とかやっていますと、別にそれを口にせずとも、他の人が見て、ああ、あの人、何か胃が痛そうな顔しちゅうけど、落ち着いた顔しちゅうねえという、物腰と言うか、安定感と言いますか、それが十字架と復活を映し出すキリストの香りというものじゃないかと思います。
その平和に立つこと。これが私の平和ですと立つこと。それが平和の福音を告げる準備を履物にして立つ立ち方です。この平和を自らの平和としてそこに立つ時、私たちは平和の使者、神様から差し出された和平のために家族や友人や地域の方々のもとに主から遣わされた平和の大使として、ここに立っているのだと、自分の立ち位置がわかります。どこに立っているか。キリスト故の揺るがない関係の平和にです。伝道とは自分がいま立たされているこの関係に、あなたも一緒に立ちましょう、神様がそれをお望みですと人々と一緒に立つことです。キリストが一緒に立って下さる、あなたの場所、恵みの場所が、神様の前に用意されています。どんな嵐に遭っても吹き飛ばん場所ですと、そこに立ちながら証しながら、ああ、この人の言いゆうことは少なくともこの人にとっては嘘やないんやろなって思って頂けたら、イエス様も、うん、そっからスタートやと言って下さるのではないでしょうか。
伝道は、自分の力で人を変えることではありません。あなたは神様についての考えが間違っているから変えろとやっても人は変わりません。何にしたって、そうでしょう。人に変わってもらいたかったら、自分が先ず変わる必要があります。福音伝道も同じです。
自分自身どうやって救われたか。自分の力でしょうか?自分の主体的決断によってと思ってたら、信じない人を、それはその人の自己責任だと裁き、あきらめて、その人との平和を求めるべき私たちの責任逃れをしがちになるかもしれません。それをも伝道と言うのなら、それは何の道を伝えるのか。自己責任の道か。ヨハネ3章で「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われた。また同じヨハネの14章でキリストが、わたしが道であるとおっしゃった道。それは恵みの道です。憐れみの道です。何でも自己責任にしたい私たちの自我、プライドの罪を、キリストが私たちの代表責任者となって引き受けて、代わりに裁かれて下さった赦しの道。この十字架の道をこそ、私たちは、私たちの救いの道、平和の道として伝える他に、まっこと、伝道の道はないのです。
その十字架にいよいよイエス様が向かわれてエルサレムが見えた時、そこに住む人々のためボタボタ泣かれて、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたら」とおっしゃった(ルカ19章41節以下)。平和への道がわからない人々のために、主が涙を流された。その涙のわけをわきまえるところでこそ、救われる平和がここにありますと、憐れみの道を伝える、伝道する準備が、なされていくのだと思います。
その機会が、毎日あるかはわかりません。でもキリストの平和の福音をわきまえた生活を、毎日することで、伝道の機会は訪れます。ずっと前、旅の途中で道がわからんなって人に聞きました。そしたら、ああ、あの茶色いビルわかる?あのビルを左に曲がって、二つ目の信号また左行って、まっすぐ行ったら交番あるから。がくっ(笑)。え、知らんが!でも賢くもあるのです。この人は、道を伝える備えが、できていた人を知っていた!その人が私たちだと、人々に知ってもらえたら、どんなに素晴らしいことでしょう。悩みを相談された人が、どうしたらえいかはわからんけど、でも、あの人に言うたら、あの人クリスチャンで優しい人やき、きっと助けてくれるで、と言ってもらえたら。そうやって救いに導かれた方々も決して少なくないのです。本当は、そうやって紹介してくれる人も、教会に来てくれたらと思います。でも、そのためにも、まずは私たちが平和をわきまえて生活をしておれば、神様が導いて下さいます。私たち以上に、その人の救いを望まれて、本当に命を捧げられたのが神様です。その憐れみをわきまえて、頭だけでなく心と態度で、生き方で平和をわきまえる。恵みによって与えられた揺るぎなき関係の平和をわきまえ、福音伝道の備えを毎日歩む。ほとんどが備えの日々でも良いのです。平和の道具として下さいと、備えて備えて、人々の救いを執り成し、平和を自らわきまえて、準備して、毎日、主と共に立つのです。その忠実な僕を、主は蔑ろにはされません。いつ主からお呼びがかかっても、キリストの救いを証できるよう、毎日備えて歩むのです。